クレイジージャーニーに登場。日本人初のテキーラ職人・景田哲夫
クラブで盛り上がって、ショットで煽って「テキーラ!」。罰ゲームだからと強いお酒を一気飲みで「テキーラ!」。当たり前というか、それしか知らなかったテキーラの本当の姿を、あなたはご存知だろうか。2018年1月24日放送のクレイジージャーニーに登場する日本人初のテキーラ職人・景田哲夫さん。彼はコネもなにもないなかで単身メキシコに渡り、地元でしか手に入れることのできなかったテキーラを日本に輸出させた立役者だ。
自身もテキレロ(テキーラ職人)として、日々テキーラづくりに勤しんでいる。そもそも、なぜテキーラだったのか。出会いからメキシコ移住の経緯、ぼくらがイメージするショットで煽るだけじゃない本当に美味しいテキーラの飲み方まで。新宿のテキーラバーで景田さんの話に感銘を受けたミーティア編集部の小杉が電話インタビューを敢行。日本人初となるテキレロの目指す先を本人撮影による現地の様子とともにお届けする。
Photography_Tetsuo Kageta
Interview_Yuta Kosugi
Edit_Satoru Kanai
テキーラに対する間違った固定観念
――「テキーラとの出会い、メキシコへ渡るまでの経緯、自分を突き動かした出来事や心情」からお伺いできればと思います。そもそものキッカケとしては、六本木のバーで働かれていたんですよね?
景田哲夫(以下、景田) : そうです。バーテンダー自体は15,6年くらい、色んなところでやっていまして。そのなかでテキーラ専門店でも働いていました。そこからテキーラを飲みはじめてみたら、バーテンダーとして働いている自分でさえ、テキーラに対する固定観念がすごく大きかったことに気が付きました。
ジンやウォッカには多様性があるけれど、テキーラというのは“ライムと塩で一気飲み”するだけものだと思っていたんです。それが知れば知るほど、これは他のお酒よりもはるかに奥深いんじゃないかと感じてしまって。気がつくとテキーラの世界にのめり込んでいました。
――テキーラに対する“ギャップ”の部分も、ハマる要素としては大きかったんですね。
景田 : お客さま側はもちろん、提供する側までも“塩とライムで一気飲み”をするイメージしかなった。それが悪いわけではなく、もっと多様性があることに気がついたという感じですね。飲み方は人それぞれで、味わいの表現も人それぞれなんですけど、銘柄だけは選んでいただけたらうれしい。自分もそこのお手伝いができたらというのは、いつしか考えるようになっていました。
――そこから、2009年に研修旅行でメキシコに行かれたんですよね。
景田 : 2日間で10箇所ぐらいの蒸留所を回ったんですが、「せっかく(メキシコに)行くんだったら」みたいな感じの凄まじいスケジュールでした(笑)。情報がほとんどないなかでアポを取って、一瞬だけ蒸留所をみて、パパッとまた次に行く――。ただ、その旅のなかで「またここに帰ってこられたらいいな」という漠然とした空気感だけが自分のなかに残って、また日本に帰って仕事を続けて、という感じですね。
――研修旅行に行く前は、まだテキーラに強い思い入れがある段階ではなかった、と。
景田 : まだ、なかったですね。でも、当時働いていたバーのマネージャーがつくったマルガリータを飲んで、カクテルのベースとしても可能性があるんじゃないかなと、薄々は感じていた時でもあったんです。(テキーラ専門店で)接客をしていると、お客さまのほうが「もっとテキーラについて知りたい」という欲求も強かったですし、それにお答えする説得力が自分にはなかったという焦りもありました。
そうか! ちょうど4年前の今日ですね。2014年の1月15日にこちらに渡ったんです。(編註:インタビューは2018年1月15日に実施)なので、もう5年目に突入しますね。
そもそもカスカウィンなんて知らない
――では、ちょうどいいタイミングでのインタビューとなりましたね! 日本で働き続けながら、こころのなかでは「いつかメキシコに戻るぞ」と思っていた。そこから、実際に移住するまでに気持ちが高まったのは、なにかキッカケがあったのでしょうか。
景田 : やはり情報にも限界があったので、もう行くしかないなというのはずっと感じていました。ただ、行くとなると親にも話さなければいけないですし、行って何かを得られる保証もない。ギャンブルなところもありました。ですが、自分の思いとともに「行っておいで」って言ってくださる方がすごく多かったんです。バックアップをしてくださる方もいらっしゃって、これはいいタイミングだと決断しました。
まず、メキシコ側にひとりだけ知り合いがいたので、グアダラハラ(編註:ハリスコ州グアダラハラ。メキシコ第二の都市。テキーラ5州とされる州内の特定自治区内・テキーラ市周辺にて、限られた原料・製法で作られたものが「テキーラ」、それ以外のものは別の呼称で区別する)ではなく、メキシコシティ(編註:メキシコ最大の都市であり首都。どの州にも属さない独立した連邦直轄地)に飛んで、さぁどうするかな……という感じのスタートでしたね。
――どこかの蒸留所で働くアテがあるとかではなく、とりあえず行ってみてどうしようか、という渡り方だったんですね。
景田 : そうなんですよ(笑)。そもそもカスカウィン(編註:後に働くことになるテキーラの蒸留所名、またそこで作られるテキーラの銘柄)のことなんて知らなかったんですからね。とりあえずメキシコに着いたときもスペイン語は喋れないですし、メキシコシティなんて(テキーラと)全然関係ない土地ですし。どうしようって考えながら、1週間だけメキシコシティにいたんです。そこからハリスコ在住の日本人を紹介していただいて、その方のご自宅でお世話になることになりました。ただ、現地での生活や生きていく術については伺えるのですが、テキーラ業界の方ではないので、その先は自分で何とかしなければいけなかったんですけどね。
――そうして、現在働かれているカスカウィン蒸留所と出会うわけですね。
景田 : これも本当に偶然で、ハリスコに移動して3ヶ月くらい経ったときに、道を歩いていたらイギリス人に英語で話しかけられまして。(メキシコ人とは)顔が違うので「何してるんだ?」って聞かれて、「こういう感じで(蒸留所関係へのつながりを)探していたんです」という話をしたら「じゃあ毎週飲んでいるから、とりあえず(グアダラハラに)おいでよ」って招待されて。それで何回も通って(色んな人に)同じこと話していたら、ある人が「ひとりだけ知っているから紹介するよ」って紹介してくれたのが、カスカウィンのチャバ(編註:カスカウィン生産マネージャー サルバドール・ロサレス・トレホ)なんですよ。
――新宿のテキーラバーでご一緒した方ですね。
景田 : そうです。それで事情を説明して「蒸留所に遊びに行っていい?」って聞いたら、「いいよ」って迎え入れてくれたのが最初です。そこから次の日も「また来ていい?」っていって通いつめました(笑)。最初は自力でたどり着かないといけないので、もう必死にルートを調べて。当時住んでいたグアダラハラ市内から片道2時間半ぐらいかけてバスに乗って、蒸留所を観察して写真を撮って、またバスで帰ってというのを繰り返していたら、いつからか「帰りは乗せていってあげるから」と言ってくれるようになり。そこから「この工程を見せて欲しい」とお願いしたり、逆に「発酵や蒸留の作業をやってみる?」って言ってくれたりと話が進んでいきました。
――偶然の出会いから、お酒の席で仲良くなり、人を紹介してもらって、みたいなところからなんですね。
景田 : その綱渡り(の綱)が、最初から繋がっていた訳じゃなくて、本当に手探りで繋げていって……。運が良かったんだと思います。ただ、バスの乗り方もわからないですし、タクシーも「乗って大丈夫かな…」とかメキシコならではの経験、不安もいっぱいありました。まあ、結果オーライになりましたけどね。
――メキシコは「治安がよくない」イメージがありますけど、そういったところって不安に感じることはなかったですか?
景田 : それは、なぜかなかったんですね。というのも、六本木での勤務が長かったので(笑)。日本のニュースってそれ(凄惨な事件)ばっかり出てくるじゃないですか。そこもテキーラと同じで、固定観念じゃないかなっていうのを頭の片隅に置きながら生活をしていたら大丈夫でした。起こるときはやっぱり起こりますけど、みんなが想像するほどではないと思いますね。
――テキーラでもそうですし、現地(での生活)も「行ってみなきゃ分からない」っていう意識があって、飛び込んでみたんですね。
景田 : そうです、そうです。おっしゃる通りですね。ハリスコに移動してからの3ヶ月間は、不安だらけな時もありました。やっぱり「何をしたらいいのか」「どこに行ってどうしたらいいのか」の情報がないんですよ。一番ネックになる“移動手段”も、日本だと電車やバスに乗ればなんとかたどり着ける保証があるんですけど、それすらもない。なにか言われたって分かんないですし、人種差別的なことを言われているんだろうなってわかる時もありました。まあ、そんなことを気にしていたら過ごせなかったと思うんですけど。それよりも「どこか(の蒸留所に)行けたらいいな」と思って過ごしていたので。
――そうして、カスカウィンに通う生活がスタートします。
景田 : 観光ビザは半年に一回は更新しなければいけませんので、自費で2回ぐらいコスタリカに行って、ビザを更新して、また帰ってきました。3回目の更新のときに、なんだかんだ製造工程のなかにずっといれたので「もうここだ」と思って、「ビザが必要で給料も必要だ」「ここに住みたいんだけど、どうだろう」って話をしました。関係性もできていたので、向こうもいいよって言ってくれて。国内ではビザを切り替えられないので日本に一度帰ろうと決めたのが2015年の5月だったと思います。そのあと(カスカウィンのテキーラを)輸入したいと言ってくださる方がいらっしゃいまして、最初の輸出が2015年の12月25日に決行できました。
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