司会はSUPER DOMMUNEに続き、小説『SPEED』に「相棒」としてギター男さんを描き、そんな覚せい剤がテーマの小説を日本一売った石丸元章さんだった。また、住まいがギターさんと近所だった電撃ネットワークのギュウゾウさんさえ「これ、言っていいのか?」「SNSで拡散すんなよ」という生々しく人間臭過ぎる、そして足が本当に臭く、本人も必要に応じて足を覆うコンビニ袋を常備していたというギターさんについて、ここで書くことすら憚られる内容は多かった。
最も無害な部類の話で、ギターさんの布団は窓の外、隣の家の屋根の上に敷かれて、実際そこで寝ていたということがあった。あとは名前が「ギター男」で、もちろんギターが上手く、ギターを弾くためにガスのライブに参加しているのに、ギターを持って来なかったことが1度や2度ではなかったという逸話。それは不穏なものにはまってはギターを質に入れてしまうからで、辰緒さんは2度現場でギターを買い与えたという。またそれ以外の時でも、初対面の対バンの方にギターを借りることさえあったらしい。
聞くほどに、あまりに素直で行動すべてがインプロなギターさんこそが、ガスがさらなる高みに到達し、誰がコピーしようとしてもその追随を許さない、究極の魔球的エレメントであったという確信に変わっていった。2015年に47歳で急逝されたギターさんは、期せずして概念となったGAS BOYSを、最先端で理屈を超え、身を張って体現していた存在だったのではないか。
ギターさんはクリスチャンだったという。それだって想像できない実像だが、この日ギターさん弔ってくれた本物の神主でラッパーのCCDさんは、ガスボーイズらしいミクスチャーということで、あえて神道、仏教、キリスト教などすべてが混在した儀式を取り仕切ってくださった。
そんなガスボーイズに、もちろん当時は結成前、地元柏で声をかけ、最初に彼らを東京の夜の世界へナビゲートしたのがレゲエシンガー、チエコビューティーさんという事実も興味深い。
千葉=ブロンクス説は実際にある。それはマンハッタンから川を越えたところに位置するブロンクスで、川向こうで起きていたことのカウンターとしてひねり出てきたカルチャーがヒップホップだったという構図の話。だからそれを東京に置き換えた時、川を挟んだ千葉に、近い世代で濃い人材が豊富にいたのも、必然だったのかもしれない。
そんな記念日を思い返し、贅沢を言えば『今日もつるんでる』『オレは歩くオナコケシ』『ビニール袋にオナラを込めて』といった、当時ライブの定番曲たちも聴きたかった。そう、グワシの『ちゅっぱ ちゅっぷ』『キツカロー』もなかった。しかしCOCOBAT(以下、ココバット)のライブを見ていて、思ったことがあった。
というか、それまでの「懐かしい」とか「久しぶり」とか言っていた、ある意味で緩く甘酸っぱい邂逅とは別の、当時の唐突に空気がヒリヒリし出す「リアルに危ない、コワイところに来てしまった」感がそのまま「あぁ、30年前のこの感じ」と平手打ちを喰らわせられたココバットライブ、素晴らしかった。
今井さんはブログで、2バンドの当時の邂逅について「ココバットの音源なんかろくすっぽ聴いてもいないうちから、『一緒に曲つくろう』とか言いだして、話がグイグイ進んでいった。こういう訳の分からない勢いって大事」と書いている。
”ミクスチャー”の在り方を後世に決定付けたのは映画『ジャッジメントナイト』(1993年)サントラという認識でいるが、そこからだって誰かが考えた、アルバムを売るための戦略や組み合わせが垣間見える。今抜粋したガスとココバットの付き合いは、音云々以前、今風に言うならヴァイブスの化学反応でしかないことの証左かと思う。
つまり、その後出てくるどんなミクスチャーバンドがどれだけ人気で売れているかと聞かされても、そして実際観ることがあっても、ここにある理屈抜きのヴァイブス以上のものを確認できることは、そうそうない。つまりすべては、モノゴトが分析されてカテゴライズされ、結果としてその本質的魅力を削がれてしまう以前、それぞれの側面におけるホンモノ同士がノリと躍動感だけで成立させる結晶が存在した、そんな珠玉の時代に集約されるのだ。
そして今も活躍を続けるチエコさんの、ステージから「続けているから、こうやって集まれる。みんなと会える」という言葉は、実際に僕たちが亡くしてしまった数々の才能に想いを馳せ、心に響いてくるものがあった。
最後に、繰り返しになったとしても改めて確認させてもらう。
実は「バカ&シロート」は、近田春夫さんの言葉で「非音楽家による音楽革命」が示すことと同義であり、それはそこまであった音楽史を否応なくリセットしてしまった上に、未だそこに君臨し続けるヒップホップの威力を的確に捉えた言葉である。
そしてその言葉は、チエコビューティーさんに連れられて行った芝浦インクスティックで、はじめて目の当たりにしたいとうせいこうさんや近田春夫さん、TINY PANXのライヴ後、当時まだ音楽経験すらない、後にガスのMCとなる2人が「これだったら自分たちの方がカッコいいことできるよな」と話し合った、その最高に間違っていないアティテュードを、絶妙なオブラートで包んでボカしてしまう機能まで果たしてしまった。
だから僕らは、字面のままにガスを理解したと思い込んでしまったがために、その本質を語るまでに、約30年もの時間を要したのだ。
思えば、ビースティボーイズの熱心なファンからは特に評価高い2枚目『Paul’s Boutique』(1989年)、決定打となる3枚目『CHECK YOUR HEAD』(1992年)の音だって世界の音楽史としても、類似のものが前後にないという意味で孤高ではないか。そして上杉さんによる、当時「とにかくビースティばかりを聴いていた」という証言もある。
自らの作品にどんな機能を持たせたいか。オーディエンスと、どんなコミュニケーションを実現したいか。
そのあたりを考えるほど、才能はあればよいわけではないし、こだわりは突き詰めれば正解というわけでもない。
ガスボーイズは、最終的に自らが概念になったことさえ気づかないほど、クリエイティビティに対して真っ当な即興を積み重ね、ゴールがどこかもわからなくなったところで霧散した。そうやってあらゆる文脈に自分たちを置くことを拒否した結果、大切な仲間を一人失うという傷を受けながら、唯一無二なかたちで世代とジャンルを超えて人々を繋げ、約30年間が詰まった奇跡を実現させた。
それが、6月26日。
この日ガス、そしてその命を受けたグワシも、酒を一杯も呑まずに、27年ぶりのライブを乗り切ったという。酒どころか不穏なものの摂取さえ自制できず駆け抜けてしまったギターさんの命を胸に、ガスは概念となった先で、バカでもシロウトでもない次のステージに立つ自らを表現し切ったのだった。
■GASBOYSプロフィール
3ピースバンド+2MC+1DJという構成で1988年に結成されたヒップホップクルー。ミクスチャブームを10年近く先取りした形態で「早すぎたグループ」として伝説的存在になっている。1988年、千葉県柏にて小学校の同級生だった上杉・今井により結成。1989年、シンガー・チエコビューティーと出会い、東京進出。DJ アンダーグラウンド No.1 コンテスト第 3 回に出場。同年、DJ バリケ~ン、ギター男が加入。スチャダラパーがアルバム『タワーリングナンセンス』でメジャーデビューした1991年、須永辰雄(DJ Doc. Holiday )プロデュースで「 キョーレツ オゲレツ レッツゲットイル!!」CD デビュー。1992年、ECDが1stアルバム『ECD』をリリースしたその年、GASBOYS Meets Cocobat「 公衆ベンジョ。」発売(SDPアニ参加)。同年、Beastie Boys来日。クラブチッタでの公演で Gas Boys が前座を務める。この頃、武村国蔵をドラム、ベースには、アジャを迎え、バンド編成での活動開始。1993年、RHYMESTER が1stアルバム『俺に言わせりゃ』、キミドリが 1stアルバム『キミドリ』を発売したその年「バカ&シロート」でGASBOYSコロンビアよりメジャーデビュー!1994年アルバム「GAS」がリリース。弟分グループ Gwashi がラップで初参加。この年、スチャダラパーと小沢健二のシングル「今夜はブギー・バック」、EAST END × YURI の1stシングル「DA.YO.NE」がリリース。1995年ポニーキャニオンに移籍しアルバム「三日月」発売(プロデューサー椎名謙介初参加。以後、すべての GAS作品に関わる。1996年EP「黄昏モード」、EP「Lights」リリース。2001年 Rise From The Dead「Come On Sky feat. GAS BOYS」2002年 SHAKKAZOMBIE「四六時中 feat. GAS BOYS」2015年 RAGGA-G『ねこまっしぐら feat.GAS BOYS』リリース。2015年8月恵比寿 頭バーでギター男追悼ライブ。2022年、BASEMENTBARで「ギター男さん楽しい8回忌」開催。関連プログラムとして、DOMMUNEにて「GASBOYSとその時代。90年代クラブシーン大解剖」がライヴストリーミング。
■有太マン・プロフィール
1975年、東京生まれ。中学生の時、母親に連れられて観た映画『DO THE RIGHT THING』をきっかけにヒップホップに没入。ミロス後期にやらせてもらっていたDJをきっかけに須永辰緒氏に拾われ、渋谷Organ Barオープン頃の金土サポートDJを勤める。
1996年夏、さんピンCAMP体験後に渡米、NYで美大生/4DJ’S RECORDSバイヤーとして5年間過ごす。帰国後はCharlie Chase、Jazzy Jay、Diamond D、Just Ice、T La Rockらを招聘する傍ら、カルチャー誌各種ほか、週刊誌や実話誌を通じてヒップホップカルチャーの啓蒙に勤しむ。
3.11で事故が起きた福島=日本のブロンクスという直感で、約3年間福島市に移住。農協、生協、福島大学の連携で市内全農地の放射線量を測る「土壌スクリーニングプロジェクト」事務局として従事。その経験から、生命を軸に社会を再構築する「BIOCRACY(ビオクラシー)」を提唱。
2015年帰京以降は、みんな電力(現UPDATER)と並走しながら再生可能エネルギーの拡張に取り組んでいる。
単著『福島』、『ビオクラシー』(共にSEEDS出版/2015、2016)、『虚人と巨人』(辰巳出版、2016)。個展「From Here to Fame」(HEIGHT原宿、2005)、「ビオクラシー」(高円寺 Garter、2016)。
コロナ禍の「ビオクラシー宣言2.0」:http://chimpom.jp/artistrunspace/garterpress/BIOCRACY2020.pdf
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