生きることに寄り添ったアルバムを作ろうっていうのはあった
――今回の構想は『カタルシス』の制作時点からあったと聞いていますが、もう少しそのあたりを改めて聞かせてもらえませんか?
SKY-HI:『カタルシス』のアルバムが出来きらないくらいのときに、『カタルシス』がやるようなことが伝わらなかったら――、ポップミュージックとしてのクオリティとか、ラッパーとしてのポテンシャルとか、ソングライターとしての資質とか、アルバムの構築性の高さとか、全部ね。それをもし認めてもらえなかった場合は、音楽との向き合い方も変えようとか思ってた。それこそファストミュージックによって、本当短いペースでフリーでぽんぽんぽんぽんって出しちゃうみたいにしてね。
でも、『カタルシス』は認められるはずだとも思ってたから、その場合はちゃんと続きを書こうと。死すを語る話をしたあとに、生きることに向き合おうとは考えてた。ただその方向、“LIVE”に“LOVE”がくっついて“OLIVE”になれたのは、『カタルシス』リリース後。
喉の手術後の自分と音楽との向き合い方や、バンドとダンサーとの向き合い方の中から『ナナイロホリデー』が生まれて、そこで着想が完成した感じで。一方で『クロノグラフ』は自分の中ですごい重みが強かったんですけど、言葉にどこまでそれを出すべきか、差し引きしながら作っていたかな。
(『OLIVE』に収録されている『ナナイロホリデー』公式MV)
――『クロノグラフ』における差し引きというのは、作品の完成度を音楽的に高めていく作業だったのでしょうか。
SKY-HI:いや、っていうよりは、多分、精神の流れ。だって『クロノグラフ』のデモ作ってるときは『カタルシス』が成功かどうかとか、ホールツアーが成功かどうかとか分かってない段階だから。シリアスさもあったし、自分の中で。
心の中のどっかで、もうちょっと優しくてあたたかいものを作れるんじゃないかって自分に期待してたところはあった。だからこそ『クロノグラフ』みたいな音像になってて。で、『クロノグラフ』が持ってるそういうもうちょっと濃い部分みたいなのは、アルバムで出せるだろうと思ってた。
生きることに寄り添ったアルバムを作ろうっていうのはありました。ただ、それがこんくらい愛に溢れた仕上がりになったのは本当に最近の話。
自分のDNAのどこをピックして、2017年の形で構築するか
――『OLIVE』にはソウルからディスコ、ヒップホップまで様々なサウンドが織り込まれ、フューチャー・ソウルのシーンとの親和性が高いと感じます。ご自身の目には現在のソウルのシーンはどういったものに見えていますか?
SKY-HI:音に生命を通わせようと思ったときに、ダジャレじゃないんだけど、「ソウル」はやっぱりものすごく力が強くて。究極を言うと多分、ゴスペルになるのかな。ルーツミュージックもそうだし。
精神性からのサウンドの明るさっていうのは、そういう音楽から生まれている気がしてるんですけど。60’S、70’S、80’Sみたいな音楽から自分のDNAを見つけて、それをどう構築するかみたいなサウンドの戦いは意識しました。
チャンス・ザ・ラッパー、BJ・ザ・シカゴ・キッド、ケンドリック・ラマーも。あと、ファレルもね、最近サウンドトラックのやつ(※映画『Hidden Figures』。ファレル・ウィリアムスがサウンドトラックをプロデュースしている)とか、完全によりソウルになっていく、みたいな。そういうタームに入ってる気がする、音楽シーン全体が。
自分の中のDNAのどこをピックして、2017年の形で構築するか、みたいな勝負。それは世界のあらゆるところで行われていると思ってて。今回のアルバムはそれのね、自分の中での解答かな。しかも日本の音楽シーンでそれをちゃんとやる、っていう。
――60’S、70’Sとかルーツ的なものへの回帰傾向が強まっている要因って何だと思われますか?
SKY-HI:一概には言えないですけど、多分、やっぱり10年前くらいからサンプリングが駄目になって以降、“精神的サンプリング”の方向に行く流れはあって。特に2010年以降は。で、Daft Punk『Get Lucky』バブルが起こって、完全にそうなったっていう感じかな。
そういう昔からの手紙を受け取って、今のものにしていく。そして、未来の手紙にする。バトンを貰って、繋いでいく作業を我々はずっとしてて。で、俺が今まで聴いた様々なその全てからいろんなバトンをもらってて。それを自分のバトンにして、次に渡していく。もう音楽だけじゃなくて、全部そうな気がするんですよね。
チャイルディッシュ・ガンビーノとブルーノ・マーズと、SKY-HIを聴いた今の中学生の子が、そいつのバトンを作ってまた後世に渡してって、そのときには俺の知らないミュージシャンたちもいて、そいつらがまた繋いでいって、っていう作業をきっと人間はずっとしていくだけで。細胞がそうしているように、新陳代謝していって死んでいって、そして進化していく、きっと。
いまの形、バトンの作り方としてはそういう“精神的サンプリング”から次に繋いでいく、っていうことが起きているのかなって思います。
人がいない山を見つけた感じがする
――『Walking on Water』には『嘗ての呪いがパンチラインになって歌になる 不確かな立場を交わらせたのはこの歌詞だ』というリリックがあり、言葉や日本語に対するこだわりを感じます。
一方、yahyelやWONKなどベース・ミュージック、フューチャー・ソウルのシーンでは日本人でありながら英語で歌う人が増えてきています。シーンの変化をSKY-HIさんはどのように見ていますか。
SKY-HI:いやいや、言語はそんなに問題じゃないですよ。だってそれこそね、KOHHなんて日本語で歌ってヨーロッパの人たちがみんな日本語で大合唱するわけだし、我々も英語の音楽聴いて喜んでいるわけだし。基本的には問題はなくて、海外に行けるから全編英語っていうのも全然筋通ってる。コミュニケーションとして正しいじゃないですか。
ただ一番嫌なのは何となく英語、っていう。それは心のそこからディスりたい(笑)。
――(笑)。いまだからこそ、改めてヒップホップ、ブラックミュージックを日本語で歌う意義や面白みとはSKY-HIさんにとってはどういうものかお聞きしたいです。
SKY-HI:俺は日本で生まれて、やっぱり日本語はすごく好きで。日本語を紡ぐことに対するプライドとか自信もある。こだわりみたいなものも、言葉の使い方一個取ってもすごくあるし。
日本語の使い方にプライドも自信もあるがゆえに、何となく使われる英語も嫌だけど、同じくらい韻を踏むために必要ないワードが出てきたりとかするのもあんまり好きじゃないかな。
ただ、それはそれで複雑で(笑)。「うわ、これ面白!なんでこのワードここに入ってるんだろう」っていうのが、本人的に天然で「いやライミング気持ちよくて」っていうこともあるんですよね。勝手に聴いてる側が「この歌詞は凄い!」って妄想を膨らますパターンもあるから。それって、すごいアートじゃないですか。いやだって、NIPPS(※BUDDHA BRAND)の歌詞とか見てたら――。
――カオスですよね(笑)。
SKY-HI:カオス、カオス。天然なのか、計算なのかどっちか分からないですもん。でもこっちが後から解釈しようと思ったらいくらでもできるわけじゃないですか。ああいう散文詩って。ただ本当にぶっ飛ばないと無理だから、そっちの道のほうが難しいと思うんだけど(笑)。努力してなれるものでは無いですよね。
努力してケンドリック・ラマーにはなれるけど、努力してNIPPSにはなれないし、努力してビズ・マーキーにはなれない。
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