Photo:みやざきまゆみ
本気で思っているものは響く
ーー歌詞はどんな風に書いていったんでしょうか?
ずっと歌詞ができなくて、曲も最後の詰めの歌入れがうまくいかなくなって。ずっと歌詞を考えていたんですけど、その時にばあちゃんのことを思い出したんです。ばあちゃんが去年の京都大作戦の直前に亡くなって。ほんまに親と同じくらいに思って一緒に過ごしてきたし、亡くなってしまったら、もう3-4年は立ち直れへんのちゃうかなと思ってたくらい大好きやったんですよね。でも、そのまま時間が1年過ぎてしまって。ばあちゃんと心でゆっくり向き合って、ちゃんと悲しめてないなと思って、歌詞を書こうとしているときにふと心の中のばあちゃんと目があって、もっと会いに行けばよかったなとか、そんなことを考えているうちに、ばあちゃんって、いざという時は何かを伝えるために、最大限の愛と我慢と優しさでもって接してくれたんやなということをすごい思い出したんです。で、その思いをレコーディングスタジオの路地裏を歩きながら「これは書き留めないとあかんな」と思って、iPhoneのメモに思ったことを書いていたんですよね。
ただ、僕はこれまで、歌詞を書くときに自分にとっての具体的なストーリーをあえて書かなかったんです。昔「RIVER」という曲で「母」という言葉を使ったことがありますけど、それも、みんなにとっての物語になってほしいなと考えていて。いい意味で、ぼやかして丸くして、みんなの歌にしたいといつも考えてるんです。僕が感動してきた歌、心打たれてきた歌というのも常にそういう包容力を持っている歌が多かったので、そこにはこだわってたんですけど。でも、今回そのときに書き留めたことは自分の出来事と自分の思っていることにフォーカスが小さめにぎゅっと当たってしまっていたので、「これは歌詞にはならへんやろうな」と思いながら書いていたんですよ。でも、書いているうちにどんどんばあちゃんのことを思い出して、泣けてきて。路地裏で泣きながら歌詞を書いていたんですよね。知らない人から見たら完全に危ない人なんですけど(笑)。「あの人ずっと泣きながらスマホいじってるわ」みたいな。でも、もう止まらなくなって、泣きながら書いていたんですね。
で、いざ歌のレコーディングになったときに、何パターンか録った中にそのときに書いたメモの歌詞もあって。最初はこれは歌詞にはならへんやろうなと思ってたけど、僕のパーソナルなことが、そんなに個人的に聞こえなかったんですよね。僕がおばあちゃんのことを書いた歌詞も、不思議と、それが誰かにとってはお父さんのことであったり、誰かにとっては別れた恋人であったり、誰かにとっては兄弟であったり、そういう風に人によってそれぞれのシチュエーションに重ねうる表現なんじゃないかなって思ったんですよ。そういう風に、具体的なことを歌っているのに、いろんな人に自分のことと重ねてもらえるかもしれないという可能性を感じる表現というのが初めてやったので、こういう方向で行ってみたいなって思ったんですよね。
やっぱり、本当のこと、本気で思っている歌と言うのは、作られた物語ではないから、歌っているときも、その歌詞の表現、全てが演じていないんですよね。だから、その人の個人的な物語であっても、本気で思っているものは響くんやなと、初めて思ったんです。言葉のわからない犬でも悲しそうな声で鳴いていたら伝わるし、怒ってたらわかるし、人間でもそうですよね。本当に怒っている人というのは言葉を発さなくても、これはかなり怒ってるぞって伝わる。思っていることを本気で、本心で歌うという表現も、歌としてあるべき姿なんかなと思いましたね。
ーーそのことは、ちゃんとこの曲のテーマともつながりますね。言葉足らずでも伝わるし、むしろ、言葉を使わないほうが伝わるものがある。
そういう時もあるんやないかなと思います。言葉の順番が間違っていたり、唾飛ばしながらよくわからない表現だったとしても、一生懸命伝えようとしている人というのは、なんか、伝わりますから。
アンテナが錆付いたおかげで純粋さが余計にわかるようになった
ーー「アンテナラスト」という曲名はどういう由来からつけたものなんでしょうか。
ラストというのは、鉄の錆び(rust)という意味なんです。錆ついたアンテナという造語ですね。
ーー錆びついたアンテナというのは、どういうものを象徴する言葉として、イメージを膨らませていったんですか?
子供の時とか若い時って、心は純粋やし、頭の中で精査せずに気持ちで動けると思うんです。だから、ばあちゃんにも「あっち行け」って言ってしまうし、泣いてしまうし。心が澄んでいると思うんですよね。澄んでいる分、頭を通らずに感情表現がそのまま直接出てくると思うんですけど、それがやっぱりいろんな経験をするとね、良くも悪くも学んでいきますし。傷つけたり傷つけられたりしながら、人の言葉の裏を透かして見ようとするし、「これ、本当はどういう意味で言ってるのかな」とか、疑うようになっていくと思うんです。そういうのを、20歳を超えたあたりから自分に感じてきて。30歳、40歳になって、なおさらそういう疑う心は深くなってしまったんじゃないかなと思う日々で。感受性のアンテナが錆付いてしまったなと思うんですね。でも、錆付いているからこそ、街を歩いていたら、わがままを言ったり喜んだり悲しんだりしている子供を見ると、その純粋さも余計にわかるようになりますし。人の純粋さというのは、自分が純粋だったらわからないかもしれないなって思うんですよね。人の優しさとか愛とか情熱というものが、アンテナが錆付いたおかげでわかるようになった。ある意味それは悲しいところもあるんですけどね。
きっとそういう人はいっぱいいると思うんですよ。僕も人のことを疑うようになって、「俺はほんまに汚いやつやな」って、自己嫌悪に陥って悩んでいた時期があったんですけど、その時にこんな風に言ってくれる先輩がおったりとか、そういうふうに言ってくれている歌があったらいいなと思っていたので。実際、僕にはそういう歌があったから、そういうことを後ろ向きにとらえずにいられた。真っ白で何も経験していない、何も汚れたことのないものが純粋やと思っていたんですけど、でもその純粋でいようという気持ちを捨てさえしなければ、後天性の純粋も必ずあると信じれるようになったんですよね。若い時は一回汚れてしまったら終わりやって思って自己嫌悪になってしまいがちなんですけど、そういうことに負けずに、自分の感受性のアンテナが錆びてしまっても、自分が純粋なもの、優しさとか愛とか、そういうところをキャッチできる、感じられるというところは変わらないと思うんで。
ーー先ほどおっしゃっていた「自己嫌悪になっていた時に支えてくれた曲」って、具体的にはどういう曲なんでしょうか。
地元の友達、というか先輩なんですけど、山田仁というやつがいまして。既に亡くなっているんですけど、その人の歌にもすごい支えられましたね。あとは同じような魂を感じる人、斉藤和義さんと、SIONさん。あと野狐禅とかね。その辺にはずいぶん助けてもらった気がします。純粋でなくなったことは、悪ではないし、不純ではない。一時的に疑り深くなったところで、その先にまた違う形での純粋があるはずやと思わせてくれた人たちやし、そういう歌を聴かせてくれた人たちですね。
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