9月30日より、トラン・アン・ユン監督の最新作『エタニティ 永遠の花たちへ』がシネスイッチ銀座ほかにて全国で公開される。この映画、すべてのカットが圧倒的に美しく、朝早く起きて濃いめのコーヒーを飲みながら観たくなるような映画だ。それでいて少し変わった作りになっていて、家族や自分について考えさせる映画でもある。
では、どんな映画なのか?まずは予告編をどうぞ。
(映画『エタニティ 永遠の花たちへ』予告編)
『エタニティ 永遠の花たちへ』とは
映画『エタニティ 永遠の花たちへ』は、フランスの作家であるアリス・フェルネの小説『未亡人たちの優雅さ』を映画化したもの。
オドレイ・トトゥ(『アメリ』など)、メラニー・ロラン(『イングロリアス・バスターズ』など)、ベレニス・ベジョ(『アーティスト』など)というフランス映画界を代表する女優3人が、運命に翻弄されながらも世代を超えて命を繋いでいく女性たちの姿を演じるヒューマンドラマ。トラン・アン・ユン監督にとって6年ぶりの監督作。
舞台は19世紀末のフランス。6人の子どもに恵まれ、満ち足りた人生を送っていたヴァランティーヌ(オドレイ・トトゥ)だったが、生まれて間もない赤ん坊が亡くなるという不運に襲われる。それを機に、次々と手にしたものが奪われていき……という物語。
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トラン・アン・ユンとは?
トラン・アン・ユンは、ベトナム出身フランス育ちの映画監督。『青いパパイヤの香り』で長編映画監督デビューを果たし、カンヌ国際映画祭にてカメラ・ドール(新人監督賞)とユース賞に輝く。2作目の『シクロ』は、ヴェネチア国際映画祭にて金獅子賞を受賞。
村上春樹の世界的ベストセラー小説『ノルウェイの森』を映画化したことでも有名。
(映画『ノルウェイの森』予告編)
シーンがない!セリフがほとんどない!それなのに感動してしまう。
「この映画に”シーン”はない」というトラン・アン・ユン監督本人のコメントに象徴されるように(公式パンフレットより)、映画『エタニティ 永遠の花たちへ』は少し変わった映画だ。
シーンの定義は少し難しいが、とりあえず本記事では「同一の場所やアクションでまとめられるひとつの場面」という認識で話を進めたいと思う。文章でたとえるなら、シーンとはひとつの文節のようなものだ。単語が組み合わさり、主語と述語が明確で、少なからず起承転結を含んでいる。映像表現においては、シーンよりも短い単位をカット(単語のようなもの)、長い単位をシークエンス(章のようなもの)といい、カット<シーン<シークエンス、とざっくり認識してもらえばいいと思う。
「本作にはシーンがない」ということは、文節のない単語だけで映画が作られているということだ。
確かに本作には、普通の映画のようなわかりやすいシーンはほとんどない。多くのカットには明確な起承転結がないように見える(実は通しで観ると全体としてかなりはっきりとした起承転結があるとわかるのだが、説明的な画がないため、一見するとカットとカットの繋がりを見出しにくい)。時系列も複雑で、たとえば別れのカットの直後に出会いのカットが挿入されるなど、回想が小刻みに入ってくる。そしてなんと言っても登場人物のセリフの少なさが、「シーン」という概念と対立しているように見える。
にもかかわらず、映画『エタニティ 永遠の花たちへ』は観客を感動させる。なぜか?
ナレーションと音楽
まず、シーンやセリフがほとんどない代わりに、第三者によるナレーションと音楽が重要な役割を果たしている。
ナレーターは原作者を連想させる女性の声。トラン・アン・ユン監督によると、「僕はアリス・フェルネの小説を、彼女の内なる声として読んだので、ナレーターの声は女性であることが必然だった」とのこと(気のせいかもしれないが、フランス語の響きはとても音楽的で、耳心地が良いように感じる)。
また、全編を通して次から次へと素晴らしいクラシック音楽が流れ続けていて、音楽が登場人物の感情や出来事の意味を示唆している。一見ゆったりと時間が進むかのように見える映画だが、人物たちの感情の流れが実はかなり激しいということが音楽によって理解できる。そして逆に、音のないシーンが象徴する「あるもの」が余計に際立ち、重みを感じさせる。
つまり、シーンやセリフを、情報面ではナレーションが、感情面では音楽が代替しているということだ。
『エタニティ 永遠の花たちへ』を観ると、シーンやセリフの必要性とはいったい何なのかと考え込んでしまう。そんなものがなくてもじゅうぶんに映画が成り立つことが証明されてしまったからだ。
すべてのカットがあまりに美しい。
とは言えやはり、『エタニティ 永遠の花たちへ』という映画の一番の魅力は美しさだ。
予告編を見れば想像できるかもしれないが、すべてのカットが絵画のように美しい。構図、照明、カメラワーク、編集に異様なほどのこだわりが見え、それらが美を引き立たせている。自然、建築、服装など、19世紀のフランスってこんなにも美しかったの?とため息が出そうになる。西洋美術に興味がある人は必見。
そしてフランスの3大女優がこうした美しさを引き立たせる演技に徹していることも特筆すべきだろうと思う。オドレイ・トトゥは、本作を振り返ってこんなふうに言っている。「私はただセットの一部になったの。何かになろうとさえしなかった」。
『アメリ』で世界的な名声を手にした女優がセットの一部になるという、ある意味では非常に贅沢な映画だ。
ちなみに、オドレイ・トトゥは本作で17歳の少女から老女までを演じている。トラン・アン・ユン監督のこだわりと美に対する哲学が垣間見える。
主人公は”愛”?「愛は学ぶもの」
『エタニティ 永遠の花たちへ』の主演は一応、オドレイ・トトゥということになっているが、真の主役は”愛”であるのかもしれない。
『エタニティ 永遠の花たちへ』を観ると、何世代にも続く愛が現在の自分に繋がっているのだとよくわかる。
考えてみれば当然のことかもしれないが、わたしたちがこの世に生を受けたのは両親がいたからであり、両親にもそれぞれ両親がいたのであり、その両親にも(以下、繰り返し)……と、気が遠くなるほどの愛と偶然が重なって現在に至るわけだ。
数少ないセリフの中に、こんなものがある。
「命には限りがあり、生と死が繰り返される」
命には確かに限りがあり、いずれみな死ぬ。誰もが別れを経験する。人生ではあらゆることが過ぎ去り、愛は一瞬の燦きのようにも思える。しかし、その一瞬の燦きは、命を繋ぐことによって次の世代その次の世代へと渡されていく。そうした営みの中で、愛は、ある意味で永遠になるのではないか。
「愛の結晶」という言葉は陳腐に聞こえるかもしれないが、わたしたちの生は、間違いなく誰かの愛の結晶なのだ。『エタニティ 永遠の花たちへ』におけるオドレイ・トトゥの愛がメラニー・ロランへ、そしてその子どもたちへと繋がっていくように、気が遠くなるほどの人たちの愛と時間が重なってわたしたちの今の命がある。ということは、わたしたちの中には、両親や祖父母やもっと遠い先祖たちの愛が蓄積されていると考えることもできるわけだ。
だとしたら、エタニティ(永遠)とは、ほとんど愛の類義語に近いのではないか。
自分やきょうだいの中に、父と母の存在をどれだけ感じることができるだろうか。
筆者はこれまで、自分や家族と真剣に向き合って生きてきたつもりだったが、『エタニティ 永遠の花たちへ』を観て、実はまだまだ表面しか見ていなかったのではないかと思わされた。自分の人生に関して重要な気付きを得た気がする。
劇中、「愛は学ぶものだ」というセリフがあるが、『エタニティ 永遠の花たちへ』を観ることで、少しだけ愛を学ぶことができるかもしれない。
作品情報
『エタニティ 永遠の花たちへ』
出演:オドレイ・トトゥ、メラニー・ロラン、ベレニス・ベジョ、ジェレミー・レニエ、ピエール・ドゥラドンシャンほか
監督:トラン・アン・ユン
原作:アリス・フェルネ
脚本:トラン・アン・ユン
撮影:マーク・リー・ピンビン
9月30日(土)、シネスイッチ銀座ほかロードショー
『エタニティ 永遠の花たちへ』公式サイト
Text_Sotaro Yamada
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