「稲妻ピアノ」担当のHAYATOこと立成隼人(Pf.)と「爆裂カホン」担当のHIROこと森冨正宏(Cajon)による→Pia-no-jaC←(ピアノジャック)は、2005年の結成以来、アグレッシブなオリジナル曲からクラッシックの名曲、映画音楽、ゲーム楽曲のカバーまで、ジャンルに囚われない個性的な楽曲で国内外の音楽ファンを魅了しているインストゥルメンタルユニットだ。そもそもピアノとカホンのユニットというのも変わり種。そんな彼らの結成秘話と、出演が間近に迫ったインストバンドのみのイベントライブ「踊る!インストクリスマス!」への意気込みを聞いた。
INTERVIEW_MIKA ABE
もともとは、ふたりともがキーボーディストだった!
――インストバンドもいろいろなタイプがありますが、→Pia-no-jaC←はピアノとカホンのコンビ。とても珍しい楽器編成ですね。
HAYATO:そうですね、おそらく世界で唯一かも知れない(笑)。僕はピアノ担当なんですけど、ずっと独学なんですよね。子どもの頃に妹の付き添いで、ほんのちょっとだけピアノ教室に行ったことはあったんですけど、楽譜通り弾くのがすごく嫌ですぐ辞めちゃったんですね。そこからオモチャ感覚で勝手に曲を作って遊んだり、中学校の合唱コンクールで伴奏をやったりはしてたんですが、ちゃんと音楽を始めたのは高校、大学のバンド活動からです。
HIRO:じつは僕も、今はカホンを演奏してますけど、最初に習った楽器ってキーボードだったんですよね……。
――え? 打楽器じゃないんですか?
HIRO:はい、小学生の時にエレクトーンを習ったのが最初で(苦笑)。高校時代にビジュアル系が流行って、バンドをやろうとドラムを始めたんですよ。
HAYATO:そうそう、僕も高校時代ギター部に入ったとき、ビジュアル系のコピーからスタートしたわ(笑)。
――おふたり、同い年ですもんね(笑)。でもHIROさんはそこからドラムじゃなく、カホン専門になったのはなぜですか? 今でこそカホンを見る機会も多くなりましたが、HIROさんが演奏し始めた頃は、さほど馴染みのある楽器じゃなかったのでは?
HIRO:そうなんです。僕がカホンを始めたのは15年くらい前になるんですけど、その頃、シンガーソングライターのサポートをやる機会がすごく多くて。ドラムじゃ弾き語りの邪魔になるので、何かいい楽器はないかと探していて知ったのがカホン。当時はまだ、知られざる民族楽器だったので、独学で身につけました。
HAYATO:それを言ったら、僕もピアノの独学っぷりもなかなか。大学の軽音サークル時代、キーボーディストがあまりに少ないんで、いろんなバンドを掛け持ちさせられまして(苦笑)。おかげで、ヘビメタからポップスまで自然といろんな音楽が身につきました。
プロを諦めるかどうか、崖っぷちで挑戦したCDデビューへの条件は?
――そんなおふたりが2005年、このユニークなインストゥルメントユニットを結成するようになったのは、どういうキッカケからですか?
HAYATO:それもたまたまなんですよ。ふたりとも出身は大阪なんですけど、20代前半によく出ていたライブハウスが同じ神戸で。ライブもそうだし、関西でレコーディングやサポートとかをお互い多くやってたんで、しょっちゅう現場で顔を合わせるんですよ。
HIRO:まぁ、ふたりとも年も同じだし、話をし出したらすっかり意気投合しちゃって(笑)。ふたりでサポート専門のピアノとカホンのユニットを組んだのが最初でした。
HAYATO:そこから関西で→Pia-no-jaC←として活動を始め、オリジナル曲を用意して月に1回、腕試しに東京でライブをするようになった。そこで東京の音楽事務所の方に「CD出してみるか?」と初めて声を掛けられたんです。でも、CDデビューしたければ、ライブで単独で30人集めろという条件があって。そのために渋谷のストリートで一生懸命ライブをやって宣伝して挑んだんですけど……集客が29人でひとり足らず。
HIRO:しかも、ライブが終わった後に残りのひとりが来てくれたんです。
HAYATO:で、悔し泣きをしながらもう一度チャンスください!と言って、次は50人がノルマに。2回目のチャンスでようやく76人集めることができて、2008年にやっとファーストアルバムの『First Contact』を出すことができたんです。僕は親から27歳までにデビューできなかったらプロを諦めると宣言してたんで、ギリギリで間に合いました。当時ライブに来てくれた方には、ほんまに感謝していますね。
HIRO:僕もHAYATOと同じで、26、7歳までに結果を出せなかったら音楽辞めろと言われていたので、ふたりとも危ういところで、デビューのチャンスを手に入れられたんです。
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