去る6月4日、日曜日。日比谷野外大音楽堂は日照、気温とともに過ごしやすい状態で人々の上昇する心拍を抱きしめていた。
今もっとも世間を熱く騒がせるGLIM SPANKY(グリムスパンキー)が、初めて野音の空間に衝動を放ったのである。
見てしまったのだ。
老若男女が入り交じる、こどもから大人まで飛び跳ねる野音のステージで、私は見たのだ。幻想を。幽玄な怒りを。
Photography_HAJIME KAMIIISAKA
Text_YUI USUI
Edit_司馬ゆいか
日比谷野音が夜に塗り替えられた
日本人にしか表現できないオリエンタル要素を大切にしているという彼らの舞台装飾はどこかアジアンテイストで、ビロードをまとった象が今にも飛び出してきそう。どんな”CIRCUS”が始められるのか期待が高まる。
いつもの涼しい6月の東京であった空間が、ギターの音により一瞬できりさかれる。真っ赤なロングヘアに深緑色のワンピースをまとった松尾レミ(Vo,Gt)は、女王のようでもあり少女のようでもある。派手なシャツで颯爽と登場する亀本寛貴(Gt.)は彼女に追い立てられるウサギのようないでたち。重たいバスドラムの音がズーンズーンとお腹を刺激する。さあ、立ち上がれ、ショーの時間だよ。
独特でハスキーな松尾の歌声は野音の空に吸い込まれることなく、空間の中でびりびりとはじける。使い込まれたギターのような声は声帯にエフェクターがかかっているのかと思うほどのびやかで、本人作詞の歌詞は意味を握りしめたまま耳に届けられてくる。まだ明るい時間なのに、照明のまぶしい光と、格調高いのに素直に耳が求めてしまうサウンドで、明るい日比谷が夜になる。
Vo. / Gt. 松尾レミ
Gt. 亀本寛貴
GLIM SPANKYの世界が見せつける幻想
イリュージョンだ。目の前が夜に変われば、客席のみんなはロックンロールスターになる。悪魔のもとに連れて行かれることを歓迎している。『E.V.I』で描かれた歌詞には幻想文学に親しんで育ったという松尾の情緒と物語があふれている。偶然巡り会った外国の図書館で古くて大きなルバイヤートの本を見つけたような気分。ホコリだらけのそれが古くさく感じられないのは、その歌詞の世界がじっくりと作り込まれ、伝わりやすい言葉で表現されたうえで、高貴でカッコいい音楽に包まれて提供されるからだ。本には素晴らしいものが詰まっているけれど、誰かに開いてもらわなければ、読んでもらわなければその素晴らしさを理解してはもらえない。GLIM SPANKYは音楽のちからで自らの豊かな世界をひらき、私たちに夢見ることを許される時間をくれる。
GLIM SPANKYの真っ赤なビロードの世界に包まれ、『時代のヒーロー』で一気にエネルギッシュなムードに包まれる。アメリカの砂漠に覆われた道路をアクセル全開でとばすような。
『褒めろよ』で、盛り上がりは最高潮。亀本のギターがここぞとばかりに見せ場を発揮する。太く強く、吠えるような『ダミーロックとブルース』は歌の合間に入るギターの音色が力強い歌声に呼応して一緒に啼いているようだ。亀本のギターが主役となって、スイングし高らかに歌い上げる。客席は打たれたかのようにうっとりと音に浸っている。
松尾の歌声が幽玄な魅力を発揮する『闇に目を凝らせば』。蒼い照明の下で、どこまでもどこまでも太く長くのびていく歌声に人魚伝説を思い浮かべる。野音から放たれたこの歌を、どこか遠い国の傷ついた人々が耳にしてひとときの癒しを受け取る。怒りと激しさで聴く人を鼓舞することも、幽玄さで人を癒すこともできるGLIM SPANKYの楽曲の偉大さを実感する。
聡明とハイの絶妙なバランス
ギターをアコースティックに持ち替え、『NIGHT LAN DOT』から、童話を読み聞かせるような優しさをもった『お月様の歌』のあと、それまでの盛り上がった気分を少しゆったりなムードに変えていき、MCに入る。GLIM SPANKYの初めての野音ステージが無事に晴れたことの喜びを客席と分かち合う。時間帯も17時スタートと早めであり、夜の似合うGLIM SPANKYにしては異例の環境なのだろう。松尾の目のなかに光の点が焼け残るほどにステージは強めの照明が当たっており、その強い光のつくる影が、GLIM SPANKYの夜の世界を表現している。強い光のなかの「闇」はより深く濃いのだということを目の当たりにする。MCでの松尾の言葉選びは美しくそれでいて素直で、聡明さを感じた。
MCのあとはアコギの似合う『風に唄えば』。客席とステージの合唱で、野音の空がやわらかい一体感でいっぱいになる。徐々に温度をあげていき、『NEXT ONE』で観客を巻き込みながら熱量を最大級まで上げていく。亀本の蛇のように巧みなギターと、観客の手拍子とが渾然一体となり巨大なフェスにいるような気分にさせる。
重たいドラムとシンセで宇宙のような空間を作りだし我々が向かうのは『いざメキシコへ』。自称ビートニクの詩人・松尾父の影響あって、「ギンズバーグに倣って」メキシコへの道をゆく。なぜメキシコへ?そこには自由があるからさ!砂埃とヒッチハイクの情景、スリルなわくわく感が頭を満たす。ギンズバーグの詩を暗唱できる客がこの中にどれくらいいるというのだろう?そんなことは関係ない、野音にぴったりなこの曲で踊るのを我慢できる人がいるはずがない。邦楽バンドのライブによくある踊り方、みたいなメソッドは無視して、ほんとうに思い思いの感じ方で自由に踊り狂う観客の心はもうすでにメキシコでペヨーテをかじっている気分だ。
自分の「好き」を愛し続けて
暗くなるのを待っている間、松尾の持つ真っ黒なギターが「シガーボックスギター」であることが明かされる。松尾自ら沖縄の職人の元に赴き、本物の葉巻箱に弦を張ってつくられたというギターは1800年代のアメリカ、貧しい人が葉巻の空箱を使って作ったのがはじまりと言われている。テレキャスターのような音でいつものリッケン330に引けをとらない味わい深い音であった。
音楽をやるにあたって音だけでなく見た目も全てひっくるめて芸術である、との考えをもつGLIM SPANKYのふたり。客席を見渡し、自分なりのおしゃれや好きなバンドのTシャツを着てライブに来てくれていることがとても嬉しいとMCで語っていた。
『大人になったら』の歌詞にはこんな一節がある。
「こんなロックは 知らない 要らない 聴かない君が 上手に世間を渡っていくけど」
誰しも人生のうち一度はロックを聴かずにいられない時期がある。人々はその時期にロックの世界にどっぷりはまり、ロックを愛し、クソみたいな現実世界に平手打ちをくらわしたい気分を音楽にぶつけ、強く生きるための糧とする。しかし、社会の責任を果たすことに精一杯になるといつしかロックを忘れてしまうことがある。(もともと現実だけを愛するひとはロックを聴けど心酔することさえしないかもしれない。ミーティアの読者にはそのような人は少数かも知れないが、周りにはいるだろう)
昔大切にしていた絵本のように、大好きだったおもちゃのように、思い出として片づけていいものだろうか。現実は誰にも否応なく押し寄せる。楽しかったライブもいつかは終わる。義務はいつでも朝から我々を待ちかまえている。たしかに義務だけを大切にしていたら世間ではうまくやっていけるさ。怒りは握りしめて酒でも飲んでさ。しかし、ほんとうの豊かさはそこにはない。野音に来て驚いたんだ。将来の不安や現代の世知辛さを抱えながら、それでも自分より20年は長く生きてきたであろう人々や、小学生を連れた母親が、GLIM SPANKYの鳴らすロックで跳ねていたんだ。世界への怒りを集約して拳をつきあげていたんだ。GLIM SPANKYとファンたちにとってロックは玩具箱にしまわれるようなものではない。卒業するものでもない。それは空気のように、いつまでもそばで愛し続けるものなのであろう。
無理解に対して怒りの拳を掲げよ。嫌な現実をふりほどいて、ワイルドサイドをゆくんだ。大丈夫。GLIM SPANKYの楽曲が、背中を押し、時に傷を癒し、不安な夜は美しい異国の物語を読み聞かせてくれる。
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