自由意志教っていう宗教の信者
(ぼくのりりっくのぼうよみ『Newspeak』MV。ぼくりり自身がMVの監督をつとめている)
――落合陽一さんとの対談では、後半、自由意志に関してちょっと意見が違いましたよね。あの着地がどうなったのか気になります。ぼくりりさんは、自由意志って本当にあると信じてます?
ぼくのりりっくのぼうよみ:落合さんと話した後、自分の中で自由意志の定義をアップデートしました。それまで僕は自由意志をなくすことは問題だと思っていたんですけど、必ずしも問題ではなくて、ある種、適応のひとつだという意見もまあ、確かにその通りだと思いました。そう思った上で、僕の好きな世界は自由意志を持ってる人がいっぱいいる世界だと。僕が話したい人は自由意志がある人で、僕は自由意志が好きだというのは間違いない。なので僕は自由意志を守ります、みたいな。自分が自由意志教っていう宗教の信者だということを認識したというか。だから、いっぱいある宗教のひとつを自分が信仰していて、それを布教したいなと思ってるだけで。
――自由意志があるかないかは問題ではなくて、布教したいかしたくないか?
ぼくのりりっくのぼうよみ:あるとは思います。いちばん最初の能動的な意思決定は自由意志だと思っていて。たとえば、カーナビに操られてる時の人間は果たして本当に自由意志なのか? 目的地を入力して、それから「ここを右に曲がって下さい」とか言われるわけじゃないですか。その時はむしろ機械に使われてる、人間という名のロボットなんじゃないか。そういう指摘に対して「自由意志がある」って言えるのかどうか、僕はよくわかってなかったんです。でも対談で、落合さんと「自分の文脈を形成することが大事」という話をしました。自分はこういう人間ですっていうのを表現できるようになるといいよね、っていう話です。そうやって自分という学問を収めた後では、自分の進むべき道が見えるかもしれない。それが目的地を決める作業で、それは自由意志なんじゃないかと思っていて。
――そのたとえはすごくよくわかります。ただ、こういう考え方もできますよね。カーナビに目的地を入れるという作業だって、自分のいま置かれている環境に左右されて誘発された選択にすぎない、と。それって、自由意志と言えるんでしょうか?
ぼくのりりっくのぼうよみ:その議論の行き着く先ってたぶん、家で引きこもって寝てるのが正解、ってことになってしまうと思うんですよね。結局、どこまで行っても自分の手持ちのカードでやるしかないわけで、だったらそこはあくまで受け入れつつじゃないですか? 確かに自由意志の厳密な定義自体は難しいですけど、僕にとってはさっき言った通りなので、「あ、違うんですね。まあ、僕にとってはこいう感じでやってます」くらいの感覚というか。いろんな指摘はあるかもしれないですけど、それは実際の行動より尊いものではないんじゃないかっていう気がします。やらない善よりやる偽善というニュアンスみたいな。とりあえず僕は自由意志が大事だと思ってるし、自分の中でこういう自由意志の定義をなしたので、それに沿って動いていくだけですよ、っていう。
情報の洪水を無効化する
――ここまでの話は、溢れる情報の洪水を前提とした話でした。一方で、今回の『Noah’s Ark』の中には「襲い来る洪水は全てを浮き彫りにして今消えた」というフレーズがあります。情報の洪水が引く瞬間、消える瞬間が描かれているんですが、情報の洪水が引くというのは、イメージするのが難しいんですよね。具体的にどういうことなんでしょう?
ぼくのりりっくのぼうよみ:僕もよくわかってないんです。僕はそれが知りたくてメディアを始めたところがあって。聖書のストーリーでは水が引くわけじゃないですか。で、鳩がオリーブの葉を咥えて戻って来る。そこから先、どうやって歩いて来たかっていうのが、現在の僕たちなわけですよね。だから僕は終わった後の世界にすごく興味があります。僕はその中で実際、具体的にどうやってサバイブしていけばいいんだろう。水が引くっていうのはどういうことなんだろう。水が引いた後にどう生きればいいんだろう。その部分が自分の中になかったので、それを知りたくてメディアを始めたんですよね。
――なるほど。情報の総量が減るのか、情報の総量はそのままor増えていくけど取捨選択が上手くなるのか、2通りかなと思ったんですけど、ぼくりりさんはどっちの方が現実的な選択だと思いますか?
ぼくのりりっくのぼうよみ:無効化できる、みたいな感じですかね。たとえば、泳げない人が洪水の中にいるとそれは地獄というか、死んじゃうじゃないですか。でも魚だったら水いっぱいあっても泳げるし。つまりそういう風になることかなと思っていて。その中で、それこそサバイブというか取捨選択して、フェイクが大量にある中で必要なトゥルース(truth)を少しずつ拾い集めていく。周りの人は流されて自由意志を失ったり判断力を失って死んでいくけど、自分にそういうスキルがあれば大丈夫、っていうのが現実的な終わり方というか、洪水の引く瞬間なのではという。だから人によるんじゃないですか。全体の世界って存在しないのではっていう気がしていて。
――終わった後の世界を描いたのが『after that』だと思いますが、この曲は『Noah’s Ark』の中でもっとも晴れやかで清々しさがあると感じました。ぼくりりさんには、世界が終わることへの期待感があったりしますか?
(ぼくのりりっくのぼうよみ『after that』MV。洪水の後の世界を清々しく描いている)
ぼくのりりっくのぼうよみ:ああ。確かに。僕、トランプさんが選ばれた時とか、「おお」ってちょっと思ったりしました。変化への期待はすごいありますね。現状がダメって思ってるわけではないんですけど。
――なぜそういう期待を抱くんでしょう?
ぼくのりりっくのぼうよみ:なんででしょうね。変わると嬉しくないですか? 単純に新しいところにいくと嬉しいっていうか。
――いますごく満足してたら、現状維持したい気持ちになりません?
ぼくのりりっくのぼうよみ:それもそうですよね。普通そう思いますよね。でもそんなに大きな変化というよりは、僕にとっては行ったことのない街に行くワクワク感に近いというか。世界に対する認識が。
――でも、行ったことのない街に行くことと、アメリカの大統領がトランプになることの間には、すごいギャップがありませんか?
ぼくのりりっくのぼうよみ:客観的に見るとその2つのスケールは全然違うんですけど、あくまでそれをジャッジするのは僕の目でしかないので、僕の目にとっては新しい街に行った時とそんなに変わらないものにしか見えないんですよね。それはたぶん、僕が生きてる日常とアメリカとの間に距離があるせいだと思うんですけど。でも「いよいよディストピア感が強くなって来たぞ」みたいな感じはあります。ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に近づいて来てる。それは嬉しくはないんですけど、『1984年』がめっちゃ好きだったので、フィクションの世界が再現されているような感じ。もっと言えば、『NARUTO展』とかを観に行った感覚に近いです。だから僕、あんまり生きてることにリアリティを感じてないんじゃないかなって。まあ、子どもとかできたら変わるんじゃないかって思うんですけど。
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