ミーティア的「行きつけ」にしたいお店をレポートする連載企画「ボクらの行きつけ」。今回はスピンオフとして、劇作家・演出家・映画監督・音楽家等々、数多くの顔を持つケラリーノ・サンドロヴィッチことKERAをゲストに一杯。題して、「KERA(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)の行きつけ」。
舞台は下北沢のジャズバー『レディ・ジェーン』。演劇の街で、演劇人に愛されたバーで、演劇のレジェンドに、人生や音楽の話を伺いました。
Photography_Cho Ongo
Interview & Text_Sotaro Yamada
Edit_Shu Nissen
KERA(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)って知ってる?
KERA : 久しぶりだなあ。最後に来たのがいつだったか覚えてないや。少なくともこの1年は来てない。初めて来たのは……たしか20年くらい前。誰と来たんだろう。竹中直人さんだったかもしれない。彼とここでサシで飲んだ記憶があるから。
下北沢駅から徒歩3分でたどり着く異空間。1975年から続く『レディ・ジェーン』は、松田優作が通っていたことでも知られており、現在も彼の入れたボトルが残っているという。多くのミュージシャンや演劇・映画関係者が通いつめ、下北沢を代表する名店として愛されてきた。
壁にはさまざまな絵や写真が飾られ、本棚には演劇関係の本と写真集、そして膨大な数のレコードが。定期的にライブも開催されるため、ピアノやスピーカーも設置されている。さらには、天井を埋め尽くす何百枚という演劇のチラシとポスターが、ここにしかない独特の雰囲気を漂わせている。
KERAも舞台が終わったあとに、よくここで待ち合わせをしていたという。
KERA : 夜中に仕事をするから、用事がなければ昼の3時頃まで寝てるんだよね。18時過ぎという時間帯はむしろアクセルをかけ始める時間(※この日の取材は18時過ぎからスタート)。飲んじゃうと仕事ができなくなっちゃうな(笑)。
ケラリーノ・サンドロヴィッチ。別名義KERAとしても活動中。1963年生まれの東京都出身。もともと酒も煙草も一切やらない人間だった。しかし周囲の人間たちの影響で26歳の頃から酒を飲み始めるように。とはいえ、カルアミルク、アマレットミルク、カシスオレンジなど、「女子大生が飲むような甘い酒」を付き合い程度に飲むのが基本。家では、仕事が終わるとビールやシャンディ・ガフを1杯だけ。KERAにとって酒は、仕事の終わりに訪れる1杯だけの癒しなのだ。
KERA : 最近うちのマンションで改築が始まってさ、朝8時から工事してるのね。8時って自分にとっては消灯時間だから、うるさくて眠れなくなっちゃって。彼らが休憩する12時~13時のあいだにようやく眠りにつくようになったの。寝ようと思えば18時間くらい平気で眠るんだけど、平均睡眠時間は4~5時間くらいかなあ。最近眠りが浅くてすぐ目が覚めて、そうするともう、なかなか眠れない。若い頃は、明日休みだと思って寝て起きたら2日後だったということもあったんだけど(笑)。
劇作家、演出家、劇団『ナイロン100℃』主宰、映画監督、音楽家、ナゴムレコード主宰など、とにかく多くの顔を持つKERA。世代によって彼に抱くイメージは実にさまざま。そんな中、2018年秋には学術、芸術、スポーツ分野の功労者に贈られる栄典「紫綬褒章」を受章。
KERA : 「紫綬褒章」を受章すると割と大きめにニュースになるじゃない? 80年代、インディーズ・ブームの頃追っかけてくれてた50代以上の人達は、いつの間にか音楽シーンの表舞台からフェイドアウトしていた俺がいきなりこんなニュースに出たから驚きの反応が多かった。逆に若い人は演劇の俺しか知らないから、ニュースをきっかけに音楽のことを知って驚いてくれた。そこから俺に興味を持ってくれてちょっと調べてみるといろんな名前が出てくるからさらに驚いてくれる(笑)。世の中には、ケラリーノ・サンドロヴィッチとKERAが同一人物だって知らない人も結構いると思うよ。
若い音楽リスナーにとっては、電気グルーヴの前身となった人生(JIN-ZAY!)や大槻ケンヂが所属している筋肉少女帯が同じインディーズレーベルに属していたことすら新鮮に思えるのに、そのレーベル『ナゴムレコード』の代表が一世風靡したバンドのボーカリストであり、さらには劇作家でもあるとなると、ちょっと情報量が多過ぎてうまく理解できないかもしれない。
あるいは若い演劇ファンにとっても、ケラリーノ・サンドロヴィッチといえば大ベテランの劇作家であり、「岸田國士戯曲賞」(※)の選考委員もつとめる大御所だ。
(※)演劇界に新風を吹き込む新人劇作家の奨励と育成を目的に設置された「演劇界の芥川賞」とも称される戯曲賞。
だとしたら、まるで文化の塊のようなこの人の真の姿は、いったいどうやったらつかめるのだろう?
グラスを傾けつつ、ちょっとずつその姿を紐解いていきましょうか。
演劇人としてのKERA
映画『グミ・チョコレート・パイン』『罪とか罰とか』やテレビドラマ『時効警察』の脚本や監督をつとめたことでもその名を広く知られるKERAだが、活動の中心にあるのはやはり演劇。まずは演劇人としてのKERAについて伺ってみよう。
今から34年前。1985年に劇団を立ちあげてから、のべ150本以上(!)の演劇作品を上演しているKERA。KERAは、どのようにして演劇を学んでいったのだろう。
KERA : 仲間と一緒に成長していった気がしています。劇団の旗揚げ時にいた犬山イヌコ、みのすけ、途中からオーディションで合流した三宅弘城や大倉孝二、みんな仕事以前の仲間だった。みのすけなんて筋肉少女帯のドラマーで、その前は有頂天のドラマーだったわけでね。あいつが有頂天をやめたのは大学受験のためなんですよ。初期の頃は大槻(ケンヂ)や(石野)卓球や、(ピエール)瀧も出てくれていて、スタッフも出演者も、半分はミュージシャン、残りの半分が犬山の知り合いの役者さんだった。
当時の演出家としての自分の仕事は、とうてい演出と言えるようなものではなかった、そうKERAは続ける。
KERA : 「なんでわかんないんの」とか「それ面白くないよ」くらいのことしか言えなかった。そんなこと言われても困るよね。ようやく自分の具体的なビジョンを言葉にすることができるようになった頃には、周りのみんなもうまくなっていた。だから本当に、一緒にうまくなっていったんですよ。みんな独学で手探りだった。そもそも最初は、演劇というよりも笑いをやりたかったんですよ。
当時の時代背景を少し説明すると、1970年代、KERAが高校生の頃、東京では、柄本明が座長を務める『劇団東京乾電池』と、佐藤B作が座長を務める『東京ヴォードヴィルショー』の2つの劇団が、笑いを軸にした演劇で注目されていた。
その少しあとで、大竹まこと、きたろう、斉木しげる、いとうせいこう、竹中直人、中村ゆうじといったメンバーを集めた宮沢章夫が『ラジカル・ガジベリビンバ・システム』を結成。ラフォーレ原宿という非演劇的な空間でスタイリッシュな笑いを追求していた『ラジカル』は、当時のバブルの空気と合致していた。
そして『ラジカル』と双璧をなしていたのが、現在は芸能事務所としても有名な『WAHAHA本舗』だった。
KERAはこうした劇団の公演を観て、「どうすれば彼らの真似をせず、彼らのように面白いものがつくれるか」と考えていた。そして1985年、犬山犬子(現・犬山イヌ子)、みのすけ、田口トモロヲらとともに『劇団健康』を旗揚げする。『劇団健康』は、モンティ・パイソンを指針としてナンセンスコメディに特化した劇団だった。
KERA : でも、ナンセンスばかりやっていると気が狂うんですよね。常に「もっとナンセンスに」と考え続けているから、だんだん何が面白いのかわからなくなってくる。『マカロニほうれん荘』の鴨川つばめさんは最後には起き上がれなくなってしまって、最終回を描いた時には、畳の下から「もう描かなくていいんだよ」って声がずっと聴こえたらしい。
ナンセンスは人を狂わせる……? ナンセンスってなんだ? それは「世界をずらすこと」らしい……。
ナンセンスとは「世界そのものが狂っている」と考えること
KERA : たとえば、高級レストランに素っ裸で行くのは「ナンセンス」じゃない。それはただの「トゥーマッチ」。正装しているけどなぜか帽子にヒバリの巣があってヒバリが住んでいる、そのことによって誰も迷惑しないけれど、誰もが「……これ、いいのか?」と困っているような状況は、ナンセンスの領域に踏み込んでいるんだよ。
つまり、ナンセンスとは「世界そのものが狂っている」という考え方なのだ。
KERA : ナンセンスを描くためには、自分の価値観をずらして、ずれた世界の住人になりきらないといけない。そんなことを繰り返していると、徐々に狂ってくるんですよ。当たり前の顔をして狂ったことを言う日常になってしまう。だから、このままナンセンスばかり続けると危ないな、と思ってさ。
そして1992年、30歳を目前にして『劇団健康』を解散。より日常に近いシチュエーションコメディや人情喜劇に可能性を見出し、あらたに発足させたのが『ナイロン100℃』だった。
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