ミーティア的「行きつけ」にしたいお店をレポートする連載企画「ボクらの行きつけ」。そのスピンオフとして、劇作家・演出家・映画監督・音楽家等々、数多くの顔を持つケラリーノ・サンドロヴィッチことKERAをゲストに迎えた「KERA(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)の行きつけ」。
前編に続き、下北沢のジャズバー『レディ・ジェーン』にてKERAに話を伺います。KERAお気に入りの「ししゃものごま揚げ」をつまみつつ、ルーツや原体験など、よりパーソナルなお話を伺いました。
Photography_Cho Ongo
Interview & Text_Sotaro Yamada
Edit_Shu Nissen
「自分で自分を裏切った時の方が苦しい」
バンド「有頂天」のボーカルとしてデビューし、レーベル「ナゴムレコード」を主宰。さらに劇団を主宰し、ドラマや映画の脚本・監督も手がける。とにかく幅の広い仕事はもちろんだが、圧倒的なのはその量だ。
KERA : 正直、これまで自分でやってきた仕事を自分でもまったく把握しきれていないんだよ(笑)。でも、「忙しい」というのとはちょっとニュアンスが違うと思う。たとえば宮藤(勘九郎)を見ていると、本当に忙しいという感じがするのね。だって彼は自分が出ている公演の出番と出番のあいだに楽屋でドラマの台本を書いているんだから。僕はそんな風に瞬時にスイッチ・チェンジできない。並行していろんなことをやるなんてできないんですよ。舞台があっても、初日を開けてから、ようやく頭脳的には次の仕事に向かっていく。
しかし、どうしてそんなに休む間も無く頑張れるのだろう?
KERA : 世間の評価は作品の質と必ずしも一致しないですよね。自分ではうまくできたと思ったものが酷評されることがあれば、あまりうまくいかなかったのに絶賛されることもある。だから、ともかく頑張り切ったという達成感がないと、どんなに褒められても嬉しくないんです。
これほどのキャリアを重ねてきたKERAでも、目標とするビジョンに到達するまでかなり時間を要する時も締め切りギリギリまで粘ることもあると言う。
KERA : ほとんど毎回がイチかバチかの勝負。ここで1時間、このセリフについて根を詰めて考えるかどうかという勝負が、1年に何度も訪れる。だから常に手を抜くことなく自分のハードルをクリアし続ける必要がある。それを続けてきたから今があるんです。手を抜いたことは一度もないと言いきれます。もし手を抜いていたら、きっと自己嫌悪で自殺しちゃう(笑)。
それはある種の恐怖なのかもしれない。自分で自分を裏切ってしまうことの恐怖。
KERA : そうかもしれないね。人に何か言われるより、自分で自分を裏切ってしまった時の方がはるかに苦しい。そうしたやりきれなさは小学生の頃からある。子供の頃からなにかと気に病む性格だった。ほんのささいなことでも、たとえば家に忘れ物をしただけでも、それを親が見つけて心配しているんじゃないかと1日中考えてしまって落ち込んでしまう。今でもそういう心配症は続いている。あの一言が実は傷つけてしまっているんじゃないかとか思い始めると眠れない。
「最終的に人は現実に戻らなければいけない」
転機は25歳の時に訪れた。病気になった父が、余命を宣告されたのだ。
KERA : 『カラフルメリイでオハヨ』という芝居を書いていた時だったんだけど、看病する人間が自分しかいなかったから2日に1回は見舞いに行く生活だった。最後の数週間は泊まり込みをして、病院で脚本を書いていたのね。親父はその頃には、モルヒネによる幻覚や幻聴のせいでいろんなうわごと言うようになっていて。「夜中になると看護婦がこのビルを運転して他の区まで持って行く」とか「ちょっと俺の腕からカセットテープ出してくれないか」とか。おかしいよね(笑)。僕はそれらを全部メモって、芝居の参考にしちゃった。そうやって書いたセリフでお客さんを笑わせてしまった。ああ、これをやってしまった以上、もう俺は一生こうだな、ってその時に覚悟を決めたんですよ。
以来、どんなにひどい目にあっても「これはネタになるぞ」と思っている自分、作家的な自分がいるという。もしかすると、KERAはこの時、真の喜劇作家になったのかもしれない。
KERA : きっと現実が嫌いなんだよね(笑)。ニュース番組を見てると本当に嫌になる、この世の中が。ものをつくっている時だけが幸せという感覚はあると思うな。創作物に逃げ込んでいるんだよね。でも最終的に人は現実に戻らなければいけない。戻らない道を選んだ人間は狂うか死ぬかしかない。だからその都度現実に戻されては、あわてて次の虚構を探している感じかな。
アルバム『LANDSCAPE』とジャズと父親
KERAが父親から受けた影響は非常に大きい。5月15日に発売となったKERAの新しいアルバム『LANDSCAPE』は、前作『Brown,White&Black』と同じく、1920~30年代のクラシカルジャズがモチーフとなっている。KERAにとっての“ジャズ”は、ジャズミュージシャンであった父親が源流だったようだ。
KERA : 昭和29年から数年間、各地でジャズ・コンサート『ジャズコン』ブームがあった。当時の日本でもっとも「ナウい」音楽はジャズだったんですよ。その頃に父親はジャズミュージシャンになったんです。でも昭和も30年代半ばを過ぎるとジャズは急激に勢いを無くしてしまった。僕が生まれた頃、父は銀座や新橋の生演奏バーで細々と演奏して日銭を稼いでいました。一方、母は、ジャズに固執し続けているそんな父を良しとしなかった。仕方なく、父は設計会社に勤めることになって。昼に仕事をして、夜にはジャズを演奏して、そんなふうに働いていていましたね。
KERAは、ジャズについて楽しそうに語る父が大好きだった。そういう時の父はイキイキとしていたからだ。
KERA : 10代の後半になると、父に対して「この人は、もっと思いきり生きることができていれば、ずっとずっと楽しい人生を送れたんじゃないのかな」と思うようになってきたんです。でもそんなことを考えているうちに病気になってしまってね。
25歳の頃、KERAは自分なりの親孝行を試みたことがあったそうだ。有頂天のボーカリストとしてメジャーデビューし、飛ぶ鳥を落とす勢いだった彼に、ソロアルバムをつくる機会がめぐってきたのだ。
KERAは、アナログ版のB面をジャズにしようと考えた。なぜなら父親がもうすぐ死んでしまうから。すでに余命を宣告され、残された時間は少なかった。
最後に1度でいいから、オールド・ジャズを歌っている自分を父に見せたい。
自ら企画書を書き、レコード会社を納得させた。プロデューサーは当時最初の全盛期を迎えていた秋元康に決まった。しかし、レコーディングが始まってから大人の事情で事態が変わり、ジャズの案は破棄されてしまった。
ほどなくして、父はこの世を去った。
KERA : もう一生自分がジャズを歌うことはないだろうと思ったし、聴くことすら嫌になった時期もありましたね。
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