(映画『マグニフィセント・セブン』予告編。まずはこちらをチェック!!)
救いのなかった厳しい時代に、「こんなヒーローがいたらいいな」なんていう願望から作られた映画でしょ?
『七人の侍』や『荒野の七人』について、そんなイメージを持っていた。
『マグニフィセント・セブン』を観るまでは。
『マグニフィセント・セブン』は女性を主人公にした『荒野の七人』
巨匠・黒澤明の『七人の侍』、そこから生まれた西部劇版のリメイク『荒野の七人』。
それらに対して、『マグニフィセント・セブン』では、主に2つの点で原作から大きな改変が見られ、話題を呼んでいる。
第一に、「正義の七人」に、アメリカに住んでいるほぼ全ての人種が揃っている点。
第二に、「正義の七人」を集める実質的な主人公が女性である点(地味な奥さんだった彼女が、「戦士の顔」になっていく様子が素晴らしい)。
しかし、何よりも本作が大胆だったのは、村人を守るための戦いに、「正義の七人」がなぜ、ほぼ無償・無報酬にも関わらず集まったのか、という「動機」の部分をほとんどごっそり削ぎ落としてしまっているところではないかと思う。
このことが、少なからぬ観た人に「彼らがそんなにも危険な戦いに無償で協力する動機がわからず、盛り上がるはずの仲間集めが全く盛り上がらない」「彼らがどこからきて、何者なのか全くわからない」という印象を与えており、評価を下げる一因になっているようだ。
確かに奇妙だ。
圧倒的な武力と財のある大勢の敵に、たった七人で挑むガンマンたち。無謀な戦いであることはもちろん彼らも承知であり、アフリカ系アメリカ人のリーダー、サム・チザムは、ネイティヴアメリカンのレッドを誘うとき、
「俺たちはこれから、戦いに行く。おそらく皆死ぬだろう」
とハッキリと言っている。
それでも、レッドはなぜか何も言わずに付いてくる。
そのようにして、彼らは次々と仲間になる。
道中で突然出会う、ネイティヴアメリカン、東洋系、メキシコ系……。
メンバーの人種を多種多様にしたことで「彼らは一体どこから来て、なぜ付いてくるのか?」と疑問に思わずにはおれず、余計に奇妙さを増す結果になっているように感じる。
我々のその疑問は、作り手自身も自覚しているようで、決戦の前日、ヒロインのエマが彼らに直接問いかけをするシーンもある。
「なぜ助けてくれるの? 他人の戦いなのに」
しかし、この映画において、明確な答えとなるセリフは一つもない。
だから、私はその理由をずっと考えながら映画を見ていた。
「彼らのうちの、一体何人が当事者なんでしょうね」
私は少し前に読んだ、あるブログの記事を思い出していた。確か、渋谷で同性パートナーシップ条例が制定されようとしていた時期だったと思う。
「同性婚だ、パートナーシップ条例だなどと声高に言う彼らには、LGBTの友達がいるのでしょうか。彼らのうちの、一体何人が当事者なのでしょうね」
こんなような記事だったと記憶しているが、この記事は、当事者たちから強くバッシングされた。
それはそうだろう、と今でも思う。
これを書いている私はレズビアンであり、その人の言う「当事者」であるが、「当事者」だって「非当事者」だって、自分のことじゃなくっても、正しいと思ったことのために戦っていいはずだ。
人は、「もしも愛する人がいるならば、理不尽に否定されることなく、家族になることができる」という、根本的な希望をもって生きている。
そうした見地から、同性愛者が同性婚の権利を得ることを「希望」だと思っている人は、「当事者」じゃなくたってたくさんいる。
そういった人たちの中には、私たちと一緒に戦ってくれる人もいる。
セクシャルマイノリティであろうがなかろうが、本質的な動機は同じなのだ。
希望や勝利とは、「当事者」だけにもたらされるものではない。
ヒーロー自身も、希望がなければ生きていけない
『マグニフィセント・セブン』における敵役、ボーグは、村人たちを人とも思っていないひどい男だ。
村人たちが住む村を「土地」としか思ってない彼は、土地を得るために、冷酷に、ただ機械的に村人を追い込んでいく。保安官は買収され、逆らう者は殺され、村人たちがどんなに理不尽を嘆いても、その声は誰にも届かない。
見せしめのために夫を撃ち殺されたエマは、村を出て、ガンマンを集めることを決意する。
彼女は近郊の町であっという間に賞金首を撃ち殺したサム・チザムを見ると駆け寄って、必死に助っ人を依頼する。
エマは、サム・チザムに「目的は復讐か」と聞かれてこう答えた。
「目的は正義よ」
初めは興味がなかったサム・チザムに、この言葉が、どんな心境の変化をもたらしたのだろう。
口では語られない彼の心を、私はこんな風に感じた。
私たちは皆、希望なしでは生きていけない。
財力と大勢の部下を持つ「強き者」であるボーグは、無情にも彼らにこう言った。
「神が彼らを生かそうとしたら、弱き者には作らなかった」
生まれながらに「強き者」ではない私たちにとって、「命の価値は生まれながらに決まっていて、どんなに抵抗しても希望はない」と思いながら暮らし続けることは、本当に辛い。
圧倒的に大きな力に追い詰められた「弱き者」でありながら必死に抵抗するエマの言葉に、サム・チザムは思ったのではないだろうか。「彼らを見捨てたら、自分の中の希望まで失うことになってしまう」と。
誰かのためではなく自分のために、「弱き者には希望がない」などと認めるわけにはいかない。どうしても、間違ってると思いたい。
もしかしたらそれは、村人とは関係なく一見「非当事者」に見える正義の七人にとって、より切実な問題だったのではないだろうか。
なぜなら、「七人」は皆、アメリカの最も大きい闇、歴史の中で迫害されてきた「弱き者」、人種的マイノリティであるから。
黙って集まってきた七人は、追い詰められた「弱き者」の嘆きを、何よりも理解する者たちだったのかもしれない。
彼らはなぜ、無償、無報酬で、危険な戦いに挑むのか。
その疑問の答えは、セリフではなく、人種的マイノリティのズラリと並んだ、彼ら七人の絵面が語っているのだ。
そう考えると、本作の構図はまるで、アメリカという国の持つ光と影のようだ。
カネとモノだけを信じ、人々を苦しめのし上がるボーグというキャラクターの象徴する「拝金主義」。
それに対抗するのは、様々な人種や文化の入り混じる「移民の国アメリカ」を象徴する「正義の七人」の人種的多様性。
そう思ったとき、私は「正義の七人」を、空想上の遠い国のヒーローではなく、「私たちのヒーロー」と感じた。
そんな彼らが、映画のクライマックスで、見ず知らずの村人たちのためにどんなに体を張って戦うか、ぜひ、劇場で見ていただきたい。
『マグニフィセント・セブン』というタイトルの意味は「崇高な七人」。
「崇高な」とは言うけれど、本作はどんな人の心にもある、普遍的なテーマを描いている。
これは希望がないと生きていけない、すべての人にとっての映画だ。
作品情報
『マグニフィセント・セブン』
あの黒澤明監督の代表作『七人の侍』の興奮とスピリッツが 今 スクリーンに蘇る!
『トレーニング デイ』『イコライザー』のアントワーン・フークア監督とアカデミー賞受賞俳優デンゼル・ワシントンが3度目のタッグを組んだ!『6才のボクが、大人になるまで。』のイーサン・ホーク、『ジュラシック・ワールド』のクリス・プラット、『REDリターンズ』のイ・ビョンホンなどの豪華キャストで偉大なる男たちの熱き生き様を描いた男が惚れるド派手なアクション超大作が登場!(公式サイトより抜粋)
監督:アントワーン・フークア
出演:デンゼル・ワシントン、クリス・プラット、イーサン・ホーク、ヴィンセント・ドノフリオ、イ・ビョンホン、マヌエル・ガルシア・ルルフ、マーティン・センズメアー、ヘイリー・ベネット
『マグニフィセント・セブン』公式サイト
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Text_Bega Hoshino
Edit_Sotaro Yamada
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