出尽くした感のあるメロウグルーヴとは明らかに違う、トレンドに媚を売らないボーイズフッドのようなもの。それでいて旬のネオソウルやオルタナティヴR&Bなどを独自のセンスとフィルターを通して表現した楽曲の人懐っこさが妙にクセになる。それがまだ宅録時代のyonawo(よなを)に対するイメージだった。
その後、ライブ活動も本格化し、地元・福岡のみならず、昨年は全国各地のフェスに10本以上出演。11月にはメジャーデビューし、デジタルシングル「ミルクチョコ」「Madomoiselle」を2ヶ月連続リリースした。さらに今年2月にはInterFM主催の「Tokyo Scene Live vol.3」にtofubeats、chelmico、YonYonとともに出演し、注目度の高さは明らか。平均年齢22歳ちょっと。お兄さん世代のニュージャズとも、邦楽ロック世代とも違う「すべての歴史がプレイリスト」世代が作るニュースタンダード。
バンドらしいアレンジでリテイクした代表曲などを含む1stミニ・アルバム『LOBSTER』のリリースを機にメンバー全員がメール・インタビューに応えてくれた。
Photography_Toyohiro Matsushima(Live Photo)
Interview&Text_Yuka Ishizumi
Edit_Miwo Tsuji
60〜70年代の音楽は自由というか、気ままさに憧れを持っています(田中)
――すでにいくつかのインタビューで、荒谷さんと斉藤さんが中学時代に出会い、ビートルズなどを介して音楽の話をするようになったとお話をされていますが、ビートルズのどんな部分が響いたのでしょうか。また、ビートルズやブリティッシュロック、60〜70年代のロック/ポップスからどんな影響を受けましたか?
田中 慧(Ba) : その頃の音楽は振り幅もすごくあって、同じアーティストでもアルバム毎に全然違うことをやっていたりだとか、すごい自由な感じがして。ああいう気ままな感じで音楽をやっているスタイルに影響を受けて、今も憧れを持っています。
――荒谷さんが曲を作るようになったきっかけは? バンド結成とどちらが早かったのでしょうか?
荒谷 翔大(Vo) : 中学時代に(斉藤)雄哉と同じサッカーのクラブチームに所属していて、そこで雄哉と仲良くなってカーペンターズやビートルズなど、好きな音楽の話をするようになりました。雄哉の家にはレコードがいっぱいあって、ギターもピアノもあったからその流れで楽器を教えて貰うようになって。その頃から曲を作ってみたいなと思っていたんですが、作り方がわからないから、それまではアカペラで歌ったのをボイスメモに入れてたんですけど、雄哉にコードを教えてもらい、そこからギターで曲を作るようになりました。そう考えると、曲を作りはじめたのはyonawo結成よりも前でした。
――4人が友達になるのと、バンドを結成するのと、どちらが早かったのでしょう。そしてバンドを結成することになった大きな理由はなんだったのでしょうか。
田中 : 友達になる方が早かったです。荒ちゃんと雄哉が中学時代のサッカークラブで一緒で仲良くて、その後に高校で雄哉と僕とのもっちゃん(野元喬文/Dr)が一緒になって遊ぶようになりました。
斉藤 雄哉(Gt) : 今のyonawoになる前は、僕と荒ちゃんと僕の幼馴染(Ba)の3人でした。それから、高校に入学して最初に仲良くなったのもっちゃん(野元)がドラムで入ってくれて、4人になったんです。でも、ベースを弾いていた幼馴染が受験でだんだん集まれなくなってしまって、荒ちゃんも卒業後はワーホリでバンクーバーに行っていて。今の体制になったのは、俺らが学校を卒業してからですね。元々別のロックバンドでギターボーカルをやっていた慧がベースとして入ってくれて、今のyonawoになりました。
田中 : 荒ちゃんが弾き語りで歌った曲を聴いて、いい曲だなって、グッと来たんです。だから、「ベースがやりたかった」というよりは「入りたいバンドにベースがいなかった」っていう方が近かったかも。
みんなで集まっても各々違うことをしていることもあります(斉藤)
――皆さんそれぞれの音楽的なバックボーンを教えてください(リスナーとして、そしてミュージシャンとしての変遷も含めて)。
荒谷 : 母が音楽好きだったこともあり、小さい頃からノラ・ジョーンズや松任谷由実、竹内まりやが家で流れていました。その延長で、僕も次第に音楽に興味を持つようになりました。最初に買ったCDがビートルズの赤盤と青盤で、その入りから洋楽を聴くようになり、その頃はストロークスとかアークティック・モンキーズとかが好きでしたね。その後は、最初にバンドでベースをやっていた子が邦楽にも詳しくて、はっぴいえんどの“風をあつめて”を教えてくれて好きになったり。耳触りも良かったし、風景も浮かぶし、スッと入ってきて、自分も日本語で曲を書いてみたいと思うようになりました。あとは、東京事変、ペトロールズとか。コードもいろいろ知って、作る音楽の幅も広がって行った感じです。
斉藤 : 親がミュージシャンをやっていて、ライブハウスとかによく連れて行って貰っていたこともあり、小さい頃から音楽が好きでした。最初はオアシスとかUKロックが好きで、そこからは東京事変やペトロールズを聴くようになって、メジャー7thとかにハマって、ジャズを聴いてみたり。あとは、ストロークスの『ANGLES』や、レディオヘッドの『OK COMPUTER』を聴いたときに、「なんじゃこりゃ?これもうバンドじゃないな」って思って、そこから打ち込みとかにも興味が出て、ダフトパンクにハマったり、サンプリングされてるジャズや、R&Bにも興味を持ったり。その頃から自分が弾くギターの感じも変わってきました。
田中 : 僕が最初に音楽に興味を持つようになったのは、幼い頃TVで観た「ポンキッキーズ」でした。番組の中で流れていた、ビートルズや斉藤和義さんの音楽に興味を持つようになって。中学に入ってから、たまたま深夜のテレビで流れていた音楽を聴いて、洋楽に興味を持つようになりました。そこからアークティック・モンキーズとかストロークス、ニルヴァーナとかヴァインズとかを好きになって。もともと暗めの音楽が好きみたいです。最近だとポーティスヘッドにハマって、ジェイムス・ブレイクとか、ボーズ・オブ・カナダとか、ああいうちょっと暗くて、メランコリックなエレクトロもすごく好き。スティーヴ・レイシーとかレックス・オレンジ・カウンティも好きですけど、「ジャンルで聴く」というよりは、ちょっとダークというか、哀愁のあるものが好きなのかもしれないです。
野元 喬文(Dr) : 姉2人がピアノをやっていて、その流れで僕もピアノを習ったんですけど、すぐ辞めてしまって。その後、和太鼓を習うようになって、和太鼓に熱中しはじめてから、気づいたら音楽が好きになっていました。僕はオルタナティヴなロックとかが好きで。ドラムのフレーズにしても、アークティック・モンキーズの『AM』みたいな、ハードでシンプルなフレーズが好きだったんです。そこからの変化としては、サカナクションが大きくて、姉ちゃんのCDを聴いて「ヤバい!」ってなって、電子音の良さを知って、ダフトパンクにハマったり。高校の頃はBeatwaveっていうアプリでエイフェックス・ツインみたいなトラックを作っていたりもしました。
――4人共通のフェイバリット・アーティスト、そして音楽以外での共通点はありますか?(例えば、どんな遊びが好きとか、どういう時間の過ごし方が好きかなども含めて)
荒谷 : 4人共通で好きなアーティストは結構いるんですが、アークティック・モンキーズやチェット・ベイカー、ビル・エヴァンスなどはみんな好きです。
斉藤 : みんなお酒が好きなので飲みにいくことはとても多いです。あとは普通にトランプで大富豪したり、みんなでサウナに行ったり、みんなで集まって各々違うことをしていたりすることもあります。
――結成当時の福岡には、バンドシーンと呼べる、もしくは4人が注目しているシーンはあったのでしょうか。あったとしたら、どのようなジャンル感や時代でしたか?
田中 : あまりシーンとして注目している感じはなかったです。個人的に福岡で好きなバンドとかはありましたが、シーンやジャンル単位で感じたことは無かったですね。
――結成当初、yonawoが持っていたバンドのビジョンはどんなものでしたか?
荒谷 : 結成した当初は、本当にビジョンは何もなかったです。
――今はメンバーにいない「ヨナオ」君からバンド名をyonawoにしたそうですが、その理由は? なんとなく意味があるようなないような不思議なバンド名だと言われたりしませんか?(個人的にはすごくフックがあるいい名前だなと思っています)
荒谷 : ノリで決めたところもあったので深い意味はありません(笑)。バンド名についてはいろんな人に不思議だとは言われます。
――インディーズ時代の音源は、ほぼ宅録だったのでしょうか。その頃の影響源にあったアーティストやムーブメントはありますか?(ちなみに自主制作のEP2作にはネオソウルというより、フランク・オーシャンをはじめとするオルタナティブなR&Bやヒップホップ に近いインテリジェントなブラックミュージックのスタンスに近いものを感じていました)。
荒谷 : フランク・オーシャンや、ジェームス・ブレイクにはとても影響を受けていました。D.I.Y.感が強いアーティストですね。
田中 : レックス・オレンジ・カウンティとかもですね。
斉藤 : スティーブ・レイシーにも影響を受けました。
「川谷絵音からメッセージが来た」と母親に電話しました(田中・野元)
――活動が進んでいく中で、バンドにとっての転機になった出来事は?
荒谷 : 今のマネージャーとの出会いですね。2019年の3月に、共通の知り合いから「番下さん(bud music主宰)って人が会いたがってる」って言われて。その2~3日後には福岡に来てくれて、ジャズ喫茶みたいなところで初めて会って、30分くらい話して、気づいたら「お願いします」って握手してました(笑)。他の人にもちょこっと会ったことはあったんですけど、そのときは仲介の人もいなかったし、変に警戒してて。でも、番下さんは「この人いいぞ」って思って。それから東京だったり、県外のライブも増えていきました。
――川谷絵音さんが推していることを知った時のメンバーの感想は?
斉藤 : 「ijo」のEPを出してすぐぐらいにSNSで取り上げてくださって、最初はめちゃくちゃびっくりしましたがとてもうれしかったです。その後にTwitterのDMでイベントのお誘いの連絡もいただいて。
野元 : 最初にメッセージが来た時、慧と近所の喫茶店に居た時に突然通知が鳴ったのを覚えています(笑)。
田中 : そのまま母親に「川谷絵音からメッセージがきた」と電話しました(笑)。
野元 : 僕もその場で母親に電話しました(笑)。
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