日本の、「詩」というジャンルはもう無くなってしまったのだろうか?
かつて、この国には和歌があった。川柳があり、多くの詩人がいた。
ところが、いつしか「詩」は消えて、「ポエム」だけがこの国に残ってしまった。
居酒屋の壁にはいかにも詩らしい、その店の店長による「ポエム」が飾られ、雑誌の表紙にはキャッチコピーが飾られ、いたるところで「ポエム調」の言葉が使われている。
そこでは、夢が語られ、「そのままで良いんだよ」と優しい言葉が綴られている。
そうして「ポエム」は増え続けているのに、「詩」が読まれることはこの国ではほとんど無くなってしまった。
「ポエム」は街に溢れているのに、詩集を読むようなひとを見かけることは滅多にない。
ときどき詩集を読むひとがいても、彼らが手にするのはリルケや、ボードレールといった、かつて生きていた「過去の詩人」ばかりである。
「ポエム」はたくさんあるのに、名のある現代の詩人はほとんどいないという状況が生まれてきている。
まるで、専門家としての詩人は消えてしまって、にも関わらず、アマチュアの作った詩だけは増え続けているかのようだ。
こうした状況は「ポエム化する社会」と呼ばれている。
しかしほんとうに、この国で、「詩人」と呼ばれるような人種はいなくなってしまったのだろうか?
きっと、小さな息吹として、ほんとうの詩人はまだかすかに残されているに違いない。
Vito Foccacioは間違いなく、そうして残された最後の「詩人」のひとりだろう。
彼の書くリリック(ヒップホップにおける歌詞のこと)には、かつてのこの国で書かれた詩の伝統がある。
彼の詩には、萩原朔太郎が『詩論』のなかで書いたような”寂しさ”がある。
それに、本来の詩が持っていたような、情景の美しさがある。
「ポエム」は、直情的で、その言葉を読むと「すぐに感情が湧き上がって」くる。
「ポエム」を読むと、励まされたような気分になったり、明日も生きていくということに、勇気が湧いたりする。
けれど、Vitoの書くリリックはそういう直情的なものではない。
読んだ後、なんだか、深い余韻のようなものが感じられる。
気分がしんみりとして、言いようのない寂しさにとらわれてしまう。
松尾芭蕉がかつて書いた、
古池や 蛙飛び込む 水の音
という俳句を思い出させられるような、そういう寂しさがある。
松尾芭蕉のこの俳句を耳にすると、誰もが、蛙の飛び込んだあとの「水の音」を想像してしまう。
蛙は水のしたへもう消えたのに、着水した際の、その音はまだかすかに残っているのが感じられる。
この、「蛙の飛び込んだ水の音」は、いつまでも響いている気がする。
俳句を読み終わっても、まだなお残っている気がする。
松尾芭蕉はこの世から消えたのに、この「蛙が飛び込んだ音」は、現代でもまだ残っている気がする。
「本物の詩」のなかにある余韻は、消えたりはしないのだ。
「詩」とは、この余韻のことではないだろうか。
Vitoのリリックにも、この余韻が含まれている。
読み終わってもなお、なんだかまだ、彼の詩の寂しさが、余韻を残して自分のこころのなかで、響いているのが、読んだひとにはわかるのだ。
密かな涙を空に隠した
触れることもせずに尽くした
船乗りの夜は通りすぎた
これはVitoの歌う『ティファナ』のリリックの抜粋である。
「詩」は、無くなったりはしていないのだ。
代わりに、その場所を移したのだろう。
かつての詩集のような場を、「詩」は持たなくなってしまったが、代わりに、別のところを住処に選んだらしい。
その場所のひとつは、現代の日本のヒップホップであるらしい。
Vitoのリリックには、かつてあった「詩」がいまなお、生きているのだ。
文:槇野慎平(http://blog.livedoor.jp/slimshady515/)
イラスト:いねいみやこ(https://twitter.com/miyako0630)
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