皆、一度は「普通の生活」や「常識」や、「平々凡々とした生き方」に疑問を持ったことがあるのではないだろうか。
世の中で当たり前とされていることは、本当に当たり前のことなのか。どうも自分の目にはその平凡な生活こそが、何か狂ったものに見えてしまう。常識と言われているものこそが、異常なのだとしたら「常識」は何処にあるのだろうか。
普通って、一体何なのか。
ミュージシャン、そして文芸誌「小説現代」九月号にて書き下ろし小説『超不自然主義』を発表した黒木渚は、常に「普通とは何か」を問う。
『超不自然主義』は黒木渚にとって、2015年10月に発売したアルバム『自由律』の初回限定盤に同梱され、そのうち第一話が文芸誌『ex-taxi』に掲載された小説『壁の鹿』に次ぐ作品となる。
小説現代九月号は本作を「初の本格小説」と銘打っている。従って本作は、黒木渚の本格的な文芸誌デビュー作としての色合いが強い。
端的に言って、『超不自然主義』は“壊れた日常”を描いた小説だ。
主人公の女性、サイコは二年前”ブクブクに太った中年の占い女”に「あなた、一年後に死ぬわよ」と宣告を受ける。
サイコは占い女の予言、「どうせ一年後に死ぬ」のだから、奇行に走る。そのような生活の中で、彼女は友人・エリちゃんと出会い、生活を共にするようになる。
無機質なモノしか愛せないエリちゃんの旦那は、石の地蔵だ。
ある日、エリちゃんは”旦那”と別れることを決意する。
サイコは、彼女が地蔵を元の場所に返還する手助けをする。
「普通」への問いは、例えば次のような記述により徹底される。奇行に走る主人公・サイコが自らの心情を一人称で綴った文である。
「毎日が絶頂だ。進めば進むほど周りにいるのはおかしな人間ばかりで、私はやっぱり普通だった。でも、彼らから見れば、かえって私の方が異質なので、私の願望は充分に満たされたのだった。」
”普通”に考えたら「毎日が絶頂」であるというのは、余程の状態だ。もし、自分が「絶頂」の中に置かれ続けたらどうなるか、考えてみてほしい。理性など、吹き飛んでしまうに違いがない。
ここである疑問が湧く。
「絶頂」に居る割には、サイコはあまりに冷静すぎやしないだろうか?どう考えても、正常な判断力がある普通の人にしか思えない。でも、彼女の名前は「サイコ」なのだ。なんとなく名付けたにしては、あまりに意味ありげなネーミングだ。
この主人公は、本当に“サイコ”なのか?
主人公・サイコの人物像を検証するため、あえて“サイコ”が登場する全く別の作品を引き合いに出してみよう。
2016年5月にV6の森田剛主演の実写版が公開されたことでも話題となった、古谷実の漫画『ヒメアノ~ル』に登場するサイコキラー、森田は常に“ぼんやり”としている。
『ヒメアノ~ル』の森田が恐ろしいのは、何故なのか。それは彼が社会の常識や枠組みから外れた場所に居る、“理解出来ない”人物だからと言えないだろうか。
作中では森田の殺人の動機は「性的興奮」と結びつけ、語られる。
しかし、森田は女性ばかりを殺めるわけでは無い。森田が同性愛者であるという記述も無い。『ヒメアノ~ル』における森田の殺人行為には、理由はあるようで無い。彼の行動には、人の命を奪うに足るような“重み”や正当性が見受けられない。
そして、森田は自らの異常性と真摯に向き合うことも、殺人行為を総括することも、社会的に置かれた状況を好転させようと努力することもない。
俗っぽい言い方ではあるが“普通”の人ならば、彼のような状況に陥ったら、もう少し「何とかしよう」とするだろう。彼は手にした金はすぐに使い果たしてしまう。サイコキラーである森田は、決して「反省」をしない。
『ヒメアノ~ル』の森田が日常の外に居るとすれば、サイコは明らかに中に居る。突飛な行動をすることはあっても、彼女は一貫して理性的だ。彼女が何をどう考え、行動しているのかは本作を読めば、第三者にも十分に分かる。
では、彼女が“サイコ”たる所以は何処にあるのか。
『超不自然主義』の妙味は「日常を描くこと」は即ち、「壊れた日常を描くこと」に“なってしまう”ことにあるのではないだろうか。
無論、この作品には様々なギミックは登場する。例えば、サイコが共に暮らす友人、エリちゃんの地蔵との結婚生活はかなりエキセントリックだ。
とはいえ、作中に「ダッチワイフ」との比喩が登場するように、生命を持たないものに愛情や性的欲求を抱くことはあるものだとも言える。(何せ、世界的にVRポルノが流行の兆しを見せているくらいだ)
不可思議なギミックこそあれ、この作品は決して日常の範囲を飛び出してはいかない。
だが、同時にこうしたことも気になるのだ。本作には「ちびまる子ちゃん」や「サザエさん」のような家庭も、「安定した職業」も「尊敬すべき大人」も登場しない。もっと言うならば、「心の底から幸せそうな人」というのが登場しない。
日常を生きることとは、壊れた社会で生きることである。
壊れた社会で生きる人々もまた、少しずつ壊れていってしまう。
そのようなある種の絶望から出発し、生まれたのがこの『超不自然主義』という小説ではないだろうか。
「絶望」という言葉を使うと、暗い気持ちになってしまう人も居るだろう。
そのような人には、是非、黒木渚の忘れがたい名曲『骨』を聴いてほしい。骨とは「私を通る強い直線」であると同時に、「私を燃やして残るもの」である。黒木渚は骨というモチーフに、死(生の有限性)と誇りという二重の意味合いを与えている。
黒木渚はミュージシャンとしても、小説家としても決してぶれない。彼女は絶望を見つめながら、常に気高く生きているのだ。
文:九十現音
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