「ニーアレプリカント」
そのソフトが発売されたのは2010年4月のことだった。
当時のぼくは、数あるゲームジャンルの中でも、とりわけRPGを好んでプレイしていた。しかし、注目の大作が発売されることを知りながら、どこかその中身について懐疑的で、発売日に買うことはしなかったのだ。
そんなぼくの疑念とは裏腹に、そのソフトは発売から一瞬のうちに大きな注目を浴びることになった。プレイしたい欲求を抑えきれなくなったぼくは、結局発売から数日遅れで買う決心をすることになる。
しかし、探せど探せど在庫を持つお店が見つからない。Amazonも家電量販店のネット販売もすべて在庫切れ。プレミアまでついてしまう始末だ。
仕方なくぼくは近所のゲームショップを巡ることにした。10店舗、時間にして数時間は巡っただろうか。「もうここになかったら入荷を待つしかないかな」と半ばあきらめムードで訪れた小さなお店で、ぼくはようやくそのソフトを手に入れた。
これが、ぼくとニーアシリーズとの出会いだった。
退廃的な世界で紡がれる悲しみの物語
タイトルに惹かれてこれを読んでくれている人にとっては周知のことかもしれないが、読者のなかにはもしかしたらニーアシリーズを知らない人もいるかもしれない。まずはニーアシリーズについて紹介するところから始めたい。
冒頭でも話したとおり、ニーアシリーズの第1作「ニーアゲシュタルト/レプリカント」が発売されたのは2010年のこと。コアなファンの多いゲームタイトル「ドラッグオンドラグーン」の製作陣が集結して「ニーアゲシュタルト/レプリカント」は開発された。
2017年には第2作であり最新作の「ニーアオートマタ」を発表。第1作目に続き「ニーアオートマタ」も国内外で高い評価を受けている。
ニーアシリーズの特徴は、退廃的な世界で描かれる悲しい物語だ。
「ニーアゲシュタルト」では病に冒された娘を助けるべく立ち上がる父を、「ニーアレプリカント」では病に冒された妹を助けるべく立ち上がる兄を描き、「ニーアオートマタ」では心を持たない、あるいは持つことを禁じられている機械同士の終わりの見えない戦いを描いている。
この――ともすれば暗いとされがちな――影の世界観は、その世界で生きる人々の心をより鮮明に映していく。プレイヤーが登場人物の感情に共感できるかどうかは、良いRPGの必要条件だ。プレイヤーはこの世界観によって、ニーアシリーズの世界に引きずり込まれていくのである。
最新作「NieR:Automata」をプレイして
まず感じたのは、前作にも増して戦闘がスタイリッシュになっていることだった。
ぼくは瞬間的な判断が必要になる、いわゆるところのアクションゲームが得意な方ではない。そう自認しているぼくでさえ、「あれ、もしかして自分このゲームうまいんじゃ?」と勘違いさせられるスタイリッシュさがそこにはあった。
当初ぼくは、このスタイリッシュさが映像やアクション性からくるものだと思っていた。どんなときもぼくの2B(ニーアオートマタの主人公)は映画のアクションシーンのように動き、ぼくを自己陶酔させてくれたし、タイミングよく敵の攻撃を回避すれば、2Bの残像が現れて世界がスローモーションになる。そのたびにぼくは「どうだ!」と言わんばかりの顔で敵キャラを見るのだ。
しかし、ゲームを進めるうちにこのスタイリッシュさは、映像やアクション性によってのみ支えられているわけではないことがわかってきた。実はこのスタイリッシュさは、ユーザーインターフェースによっても支えられていたのだ。
スマホアプリの活況によってゲーム市場への参入障壁は以前よりも低くなっている。往年の名作タイトルがスマホで復刻というようなことも最近では珍しくない。市場のそのような状況もあってか、インターフェースが不親切なゲームも一部で目にするようになった。
たとえば、アクションゲームでは、同時押しが想定されるボタンが、同時には押しづらい場所に割り当てられていたり、スマホアプリでは、ホットスポットが小さすぎて何度もタップが必要になったりすることがある。
ゲームにおいて現実に引き戻される時間が多いことは大きなマイナスだ。その点、「ニーアオートマタ」はプレイヤーの指が直感的に動く場所に、欲しいアクションのボタンが割り当てられていることが多く、プレイに没頭することができた。
どれだけ映像やアクション性に優れていても、インターフェースが悪くて没頭できないゲームがある中で、ぼくをスタイリッシュさに溺れさせる理由として、この点はとても大きかった。
無論もっと単純な、ゲームの楽しさというエンターテイメント性においても、前作の評価を裏切らない素晴らしいものだったことは言うまでもない。
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