胸がしめつけられるほど、悲しいことがあった日。
それは例えば、恋に破れた日でもいいし、自信を失くしてしまった日でも、誰かに傷つけられた日でもいい。
そんなとき、支えになってくれたのが「音楽」だったという人は、私だけではないと思う。
「気取っている」とか、「かわいそうな自分に酔っている」と言われることを恐れずに書くと、私がズタボロになったときに聴く音楽は、いつも静かで、切ない曲だった。
「そんなの、余計に暗い気持ちになってしまうんじゃないか」
「楽しい気分になる音楽を聴けばいいのに」
多分悪意なんてまったくないけれど、疑問に思う人も多くいると思う。
私自身、どうして落ち込んでいるときに切ない曲を聴いてしまうのか、これまでは言葉にして説明ができなかった。
でも、過去を振り返ってみれば、朝までぶっ通しで泣いたあと、空っぽになった自分が選んでいたのは、いつも「消え入りそうだけれど、叫びを絞り出すような音楽」だったことは事実で。
「翻弄されているということは 状態として美しいでしょうか
いいえ 綺麗な花は枯れ 醜い過程が嘲笑うのです …何時の日も」
明け方、水分を失って体がからからになった私がよく聴いていたのは、椎名林檎さんの「依存症」という曲。
大サビからアウトロにかけての流れがとても美しくて、悲しくて、でも激しくて。聴いているとぐちゃぐちゃした頭の中のモヤが少し晴れるような気がした。
今思うとあの瞬間、求めていたものは「共感」だったのかもしれない。
切ないメロディーや歌詞に自己を投影して、それを「他の誰かの感覚」として自分の中にインプットする。そして、「他の誰か」に共感し、安心する。それは、受け止めきれそうにない悲しみから自分を守る手段として、無意識に行われていることじゃないんだろうか。
「今苦しんでいるのは、自分だけでない。『他の誰か』も、同じ感覚で苦しんでいる」
そういうふうに共感することで、自分が感じている悲しみを、昇華する作業を行っている。
だから、私は悲しいときに限って、悲しくて切ない曲を求めてしまう。
時折それが自分の傷口をえぐることもある。胸がちりちりと痛んで、まるで皮膚が裂けてむき出しになった真皮を、指で撫でられているような錯覚さえ覚える。
それでも、私は悲しい曲を聴くことをやめられない。
自傷行為のようなものかもしれないけれど、きっと痛みを感じることによって、悲しみを受け入れようとしているのだと思う。そうしなければ、暴れ狂っている真っ黒な感情を抑えきれずに、自分が壊れてしまいそうな気がして。
そうして何度も指でなぞられた真皮も、いつかは皮膚が再生して治癒する。
「悲しいときに、どうしてわざわざ悲しい曲を聴くのか」と聞かれることがある。
私は痛みを感じながら、不器用なりに悲しみを受け止め、そして昇華することを繰り返して生きている。
だからこそ悲しくて切ない音楽は必要で、今も私の鎮静剤になっているのだ。
あなたは悲しいとき、どんな音楽を聴くのだろう。
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