そろそろ、いいだろう。
上映から約一ヶ月、『シン・ゴジラ』について何かしら発言すれば、TwitterをはじめとしたSNSで拡散・共有され、知らない誰かに揉みくちゃにされた。You Tubeやニコ動等の動画配信サービスサイトでも、多くの“一家言ある人たち”があらわれ、得意の批評や分析や解釈を朗々と語っていた。
ネットを閉じて、行きつけの飲み屋に行っても「そういえば、今日『シン・ゴジラ』観てきたんですよ〜」とニヤケ顔で語るおっちゃんに少なくとも7人は出会った。「最後のあの謎なシーン、僕は◯◯だと思うんですよ〜」って話も聞き飽きた。
もう、そろそろ、いいはずだ。
お祭り状態から距離を置いて、少しだけ書きたいことがある。それは、ちょっとしたイラつきである。
熱狂していた人たちに聞きたいのだ。「シン・ゴジラ」をあまりに賞賛し、持ち上げるあまり、どこかで初代以降のゴジラシリーズを、「あれは黒歴史だ」、「子どもだましだ」なんて気持ちを持ってはいないだろうか。
そんな気持ちが微塵もないのなら、この記事を読む必要はない。ただ、ちょっと思うことがあるのなら、話を続けさせていただきたい。
僕がずっとモヤモヤしている気持ち、それは「これまでの『ゴジラ』シリーズだって、すごく良かった作品がたくさんあるじゃん!」というものだ。いくら、『シン・ゴジラ』が今までにない観点からのゴジラ作品だったからと言って、一連の過去作をなんとなく惰性で続けてきたシリーズみたいな括りで考えることは、やめようよ、という話だ。
たしかに、昭和シリーズの『ゴジラVSメガロ』や『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』は過去作品の映像を流用したり、腹の立つ子役が頻繁に登場したりもする。平成VSシリーズの『ゴジラVSキングギドラ』のターミネーターオマージュも今観ると寒々しい。2000年以降のシリーズ『ゴジラ×メガギラス』もあまりの敵怪獣の弱さに拍子抜けしてしまう。
しかし、そんなシリーズの中にだって、愛すべき怪獣はたくさん登場し、テーマやストーリーなど関係なく、面白い作品はたくさんあるのだ…。
…さて、ここまで書いて困った。今回、記事を書くにあたり提示されたテーマは、「『シン・ゴジラ』を音楽的な側面から分析する記事」である。しかし、気持ちとしては、『シン・ゴジラ』よりこれから旧作ゴジラのシリーズのすばらしさを延々と話したい気持ちで溢れている。「我慢しろ」と言われれば、それまでの話だけれど。
しかし、ふと疑問が浮かぶ。どうして、僕は意固地に『シン・ゴジラ』と『ゴジラシリーズ』を対立させて、ものを考えるようになっているのだろう。疑問はこう言い換えてもいいはずだ。どうして、今回の『シン・ゴジラ』は、従来のシリーズと違って、独立した印象をもってしまうのだろう。
気になって、『シン・ゴジラ』を観返した。ふと、違和感に気づく。ストーリーやテーマ、構成などとは違う点はいくつもあるけれど、こと音楽の使い方は、かなり違いがある、と。
今作では鷲巣詩郎の完全オリジナル楽曲と共に、オマージュとして『ゴジラ復活す(キングコング対ゴジラ)』、『ゴジラ登場(メカゴジラの逆襲)』といった曲が本編でかかり、分かる人には「あ、この楽曲はあの作品で出てきたものだ」と把握できるようになっている。
しかし、過去作からの流用曲たちが、『シン・ゴジラ』にはピッタリと噛み合っていない印象があったのだ。特に、再上陸の際に使われた曲『ゴジラ復活す』は、「いよいよ見覚えのある姿が現れた!」と一発で分かるように、効果的な使われ方をしているにも関わらず、画面のテンションと上手く合致していないように思えた。
何かを取りこぼしている感覚がある。
今度は、『ゴジラVSキングコング』や『ゴジラVSメカゴジラ』、『メカゴジラの逆襲』などを観てみる。
海からの登場、怪獣との激闘、時に苦戦し倒れるゴジラ、復活からの快進撃、そして静かに海に帰っていく…。画面を観ているだけで、ゴジラが今何を思って戦っているかが伝わってくる…。
伝わってくる? どうしてゴジラの感情が読みとれてしまっているのか…。もちろん、感情表現やアクションの多様さもある。しかし、絵的な部分だけでは補えきれないものを、僕は何かで補完してしまっている。それは何かと言われたら、もう答えは1つしかない。『ゴジラ』シリーズの怪獣のバックに流れていた曲は、怪獣たちのテンションも表現していたのではないか。
音楽の盛り上がり、重厚さ、激しさ、静けさなどから、怪獣たちの感情を勝手に読み取り、壮絶な展開に思いを馳せることができる。だからこそ、怪獣ゴジラに親しみすら覚えて、素直に応援することさえもできてしまう。
これは、音楽家・伊福部昭の、重厚ながらも繊細に変化していく曲調だからこそ、表現できたものとしか言いようがない。
対して、今回の『シン・ゴジラ』のBGMの曲調は基本的に、人間視点のように思えた。ゴジラが火炎放射で街を焼き払う光景に流れる悲壮な曲も、会議室での繰り返し流れながら少しずつアップテンポになっていく曲も、その場面に映る人間全体のテンションを表している。
今回のゴジラからは、感情は読み取れない。歩き方から火炎放射の噴出に至るまで、何を考えているか分からない不気味さが強調され、観客の読み取ろうという気持ちを拒絶している。だから、流用楽曲に違和感がある。「ゴジラ復活す」は、ゴジラのこれから街や怪獣を破壊しようという、熱意や覚悟が読み取れてしまう曲にも関わらず、そうした感情は今回のゴジラからは伝わってこない。そのズレこそが違和感の原因だったのである。
そのBGMは怪獣の側にあるのか、人間の側にあるのか。曲の印象や、どういった場面で使用するのかによって、映画の中のゴジラは、残虐で何を考えているのか分からない化物にも、人間にさえ理解できてしまう優しく恐ろしい怪獣にも、変貌する。
どちらがいいのかは、観る人の好みだ。ただ、それぞれ違うゴジラ像があり、そのどちらもが併存していてもいいはずである。『ゴジラ』という作品には、どちらも受け入れるだけの豊かな土壌があるのだから。
SHARE
Written by