『祐介』という快作で小説家デビューを果たした尾崎世界観は、先週発売された雑誌『anan』(2016.8.8号)で、こんなことを語っている。
でも、本心ではセックス特集で書かせてほしいんですよ。これもちゃんと伝わってなくて悔しい! アンアンのセックス特集は、僕の最終目標なのに(笑)。
『祐介』を読んだ者なら、「その目標はすぐに達成されるだろうな」と思うだろう。
しかし、それが翌週号でいきなり達成されてしまうのだから、笑ってしまう。
8月10日に発売された『anan 2016.8.17-24合併号』。
表紙はHKT48の指原莉乃である。
発売前に、指原はTwitterで「私でスミマセン!」と、文豪・太宰治へのオマージュとも受け取れるような文学的な呟きをしているのだが、上の画像を見てもらえばわかる通り、彼女の可憐かつ妖艶な下着姿に、我々は、指原の「選ばれてあることの恍惚と不安」を見ることができるかもしれない(太宰治『葉』冒頭部分、ヴェルレーヌの詩の引用より)。
傍に添えられたキャッチコピーは「SEXでキレイになる」。
ご存知、みんな大好きanan恒例のセックス特集である。
そしてこの特集に小説家として参加しているのが、クリープハイプの尾崎世界観である。
『最夜』と題された、二ページしかないこの短い小説。
小説家としての尾崎世界観の二作目にあたる。
前作同様、露骨な性描写が活き活きと(?)描かれ、セックス特集にはうってつけの作家だったというわけだ。
主人公は名前のない男。「早希さん」と呼ばれる年上の恋人がいる。
その二人があるイベントに行く、というだけの短い話なのだが、そのイベントが少し変わっていて、舞台に設置されたベッドで、別れる直前のカップルが最後のセックスをし、それをみんなで見る、という、なんとも奇妙なイベントなのだ(このイベントがとある有名雑誌から生まれた名物企画で女性に大人気、という設定は、実に批評的でメタ的である)。
人々は他人のセックスを見て感動し、涙を流すわけである。
「会場は連日カップルで溢れかえっていて、見る前は険悪だった二人の関係が、見た後に修復されることも珍しくないらしい。人のセックス見て、我がセックスなおせということなのか」
『人のセックスを笑うな』という小説があったが(山崎ナオコーラ著・河出書房新社)、本作の舞台設定は、「人のセックスを見て感動して泣け」といったところであろうか。
しかし、私は感動できなかった。
なぜならこれは哀しい小説だからである。
主人公の恋人である早希さんは、このイベントのチケットが取れた時に大喜びしたのだという。
しかし、主人公は、「趣味の悪い企画だな」「わざわざ他人のセックスを見に行くなんてどうかしている」と思う。
そう思いながらも、主人公は早希さんについてイベントへ向かう。
二人の関係は冷え切ってきており、イベント中、主人公は早希さんの顔色ばかり伺っている。
つまり、二人のあいだの主導権を握っているのはどうやら早希さんの方であり、主人公は、常に受け身の状態を余儀なくされているのである。
「草食系男子」という言葉が世間に定着して久しいが、受け身の男は、近年の日本文学にもよく登場するモチーフであった。
たとえば村上春樹の小説に登場する男たちは、多くの場合受け身であり、にもかかわらず、ほとんど常に性交の相手に恵まれる。
いや、恵まれるという言い方は正確ではないかもしれない。村上春樹の描く男たちは、好むと好まざるとにかかわらず、次々と性的事件に巻き込まれていく。
そして必ずこう言う。
「やれやれ」
この「やれやれ」には独特の可笑しさと虚しさが含まれているのだが、私が言いたいのはそんなことではない。
尾崎世界観の『最夜』には、この「やれやれ」よりも深い哀しみが描かれているということである。
村上春樹の描く男たちは、「やれやれ」と言いながらも、最終的には自らその選択肢を選んでいるのであった。
しかし、尾崎世界観『最夜』の男たちには、はじめから選択肢すら与えられていないのである。
「他人のセックスを見るイベント」のチケットを買ったのは早希さんであった。
主人公はイベントに嫌悪感を示しながらも、早希さんに対してその嫌悪感を表明することはなかった。拒否することもできなかった。
また、舞台上で行為に及んでいるカップルも、どうやら女性の方が立場が強いらしい。
行為中の男は、情けなくて矮小で、まるで女性に媚びているように描写される。
「その度に男の喉仏は大きく上下して、わかりやすい音を立てた。それはあからさまに女の為の行為で、まるで喉仏がペコペコ頭を下げているように見えた」
このように、男の行為は自分のためではなく女のためにあり、行為を描写する主人公の目線は、どこかあきらめを感じさせる。
作中で、男が優位に立てるのは挿入の瞬間しかない。
しかもそれも「ほんの一瞬立場が入れ替わったように見えた」だけ。
実際には男女の優位性は一度も変わっていないのである。
挿入の直後、女は「すぐに役割を終えたような表情」をする。このシーンに続くパラグラフはこうだ。
「(中略)やがて小さく呻いて動かなくなった男を、一瞬申し訳なさそうな顔をした女が強く抱きしめる。その日初めて女から向けられた優しさのようなものに身をまかせる男を見て、なんだか胸が詰まった」
ここで作者が「優しさ」ではなく「優しさのようなもの」と書いていることに注目したい。
「のようなもの」である。「優しさ」ではないのである。
では、「のうよなもの」の正体とはいったい何なのか?
私は、「哀れみ」だと解釈した。
男が女から得られるものは、結局のところ、哀れみしかないのかもしれない。
ananという雑誌には、おそらく女性の読者が多いのだろうが、本作は男性にこそ読んでもらいたい小説である。
きっと多くの男が、「優しさ」すら本当には受け取ることのできない無力な男の一人として、「なんだか胸が詰まった」という哀しい感想を抱くだろう。
文:山田宗太朗
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