シンガーソングライターの坂口有望(さかぐちあみ)が、8月10日、東京・渋谷WWWにて、バンドスタイルで初のワンマンライブ『サマーセンチガール』を行なった。現役の高校生でもある16歳の坂口有望は、7月26日にシングル『好-じょし-』でメジャーデビューしたばかり。バンド編成として初のライブなだけでなく、メジャーアーティストとして初のワンマンライブでもあった。そんな初めてづくしのライブの模様をレポートする。
Text_Sotaro Yamada
Edit_Hiroyoshi Tomite
坂口有望ワンマンライブ『サマーセンチガール』
普段は大阪を拠点に、主に弾き語りで活動している坂口有望。この日はバンドスタイルで初のワンマンライブということでギター、ベース、ドラムという3人のサポートメンバーとともに登場。
東京のド真ん中、音楽シーンのこれからを担うアーティストたちが毎夜パフォーマンスを披露する渋谷WWWでのワンマンライブは、新人ミュージシャンにとって憧れの舞台であるだろう。いくらアーティストとはいってもまだ16歳の女の子であるし、つい先日メジャーデビューしたばかりだし、さぞ緊張するんだろうなあ……という予想は、凡人の余計な勘ぐりに過ぎなかった。
アコギを抱えて現れた坂口有望は、「坂口有望バンド、始めます」とこの日の始まりを宣言すると、ゆっくりと深呼吸して『15歳の詩』からライブをスタートさせた。 その素ぶりは実に堂々としていて、気負いや緊張などまったく感じられなかった。
「生まれてはじめて作った曲をやります」と言って演奏したのは『おはなし』。
曲を聴けばわかるが、これが生まれて初めて作った曲だというのはちょっと信じがたいほどのハイクオリティだ。よく、デビュー作にはそのアーティストのすべての重要な要素が詰まっている、というようなことが言われるが、坂口有望の場合も、今後事あるごとにこの曲が原点として参照されるのだろうか。きっとそのたびに参照者は驚くに違いない。「このアーティストは誕生の時点ですでに完成されていた」と。
(坂口有望『おはなし』MV)
坂口有望の曲と歌詞には<<諦念と感傷と批評と希望>>があるが、そういったゴチャゴチャしたことをあまり意識させないポップさがある。普通のアーティストはそのポップさを手に入れるために時間と経験と挫折を重ねるわけだが、スタートの時点ですでにそれをほとんど完璧に自分のものにしているのはいったいどういうわけなのか?
曲自体の魅力に、坂口有望の透き通った歌声――力強さと儚さが同居した伸びのある歌声――が重なることによって、新人アーティストの評価にありがちな「〇〇に似てるね」という指摘を完全に無効化していた。何が言いたいかというと、坂口有望はすでに完成されたオリジナルなアーティストだということだ。新人という言葉は坂口有望にはふさわしくない。
バンドメンバー紹介のくだりでは笑いも取り、メンバーやオーディエンスとの掛け合いもばっちり。空気を読む力やコミュニケーション力、人を引き込む力、アドリブ力なども相当なものだ。会場を隅々まで嬉しそうに見回し、オーディエンスひとりひとりの顔をしっかりと見つめる力強い眼差しも印象的だった。
坂口有望の根底にあるもの
アコギを赤いエレキギターに持ち替えた『お別れをする時は(仮)』や『厚底』ではオルタナティブ・ロックからの影響も匂わせるし、『ぽてと(仮)』はタイトルからは想像できないほどエモーショナルな曲で、彼女の幅の広さを感じさせる。
さらにバンドメンバーが一旦退くと、弾き語りの曲も披露。『月には内緒で(仮)』と『悪魔の(仮)』という2曲には坂口有望の本質が現れているように思う。ちなみに筆者のフェイバリットは『悪魔の(仮)』で、この曲は特に歌詞が素晴らしいのだが、なかでも「悲しみを吸っても幸せを吐き出せるよう」という歌詞は、後述するが、坂口有望がどんなアーティストなのかを考える上で重要な箇所だと思った。
再びバンドメンバーを引き入れ、シェイカーを手に、リズムに乗りながら『ばかやろう(仮)』を演奏。弾き語りでの静謐かつエモーショナルな雰囲気とは正反対の陽気で楽しい雰囲気になり、オーディエンスは手を叩いて体を揺らす。かなりポップでハッピーな曲だが、歌詞を聴くと、自分の弱さを責めるような内容の曲であることがわかる。
たとえばサビの<<ずっとずっと逃げてきたから/きっときっと空っぽだったんだ>>という言葉。
この部分には、坂口有望の根底にある何かが見え隠れしている気がする。
彼女には、自分が空っぽだという意識があるのだろうか。並のアーティストなら、その「空っぽ」な意識をそのまま差し出して作品にするだろう。そうして同じように「空っぽ」だと感じているオーディエンスからの共感を得ることで人気を積み上げていくだろう。しかし坂口有望は、「空っぽ」を独自のやり方でポジティブに昇華する。
『ばかやろう(仮)』における「空っぽ」という言葉と、『悪魔の(仮)』における「悲しみを吸っても幸せを吐き出せるよう」という言葉、これらをひとつながりの文として解釈してみる。すると、「空っぽ」であることは、より多くの「幸せを吐き出せるよう」になるために、必要なことなのではないかという気がしてくる。なぜなら、「空っぽ」でなければ、幸せを吐き出すための土台となるものを吸い込む隙間がないからだ。
そういえば、彼女が生まれて初めて作ったという曲『おはなし』にもこんな歌詞があった。
悲しいこと 辛いことが 幸せの引き立て役だったら
イヤになるほどの思い出が 私の土台だったとしたら
(坂口有望『おはなし』より)
こういうふうに歌詞を読むと、坂口有望の楽曲の根底には悲しさや虚しさがあるのかもしれないという気がしてくる。そしてそうした悲しさや虚しさを拒否するのではなく、むしろ積極的に取り込み、それらを幸せに直接変換して吐き出しているのではないかという気がする。
これを端的に言い換えるとするならば、「坂口有望は“しあわせ製造機”」とでも言おうか。
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