「おかしいな、まったく入っていかない。行き止まりになってる」
こだま著『夫のちんぽが入らない』という衝撃的な自伝が、SNSを中心に話題となっている。
1月18日に発売された『夫のちんぽが入らない』であるが、発行部数は初版から異例の3万部。発売から約1週間で重版に重版を重ね、既に11万部を突破している。
なぜ入らない? 入らない理由は……。
見た者の興味を惹くタイトル。そして、書名のそのユーモアさとは裏腹に、内容には独特の重みと固さがある。
まずは、書き出しを見てみよう。
いきなりだが、夫のちんぽが入らない。本気で言っている。交際期間も含めて二十余年、この「ちんぽが入らない」問題は、私たちをじわじわと苦しめてきた。周囲の人間に話したことはない。こんなこと軽々しく言えやしない。(中略)ちんぽが入らない私たちは、兄弟のように、あるいは植物のように、ひっそりと生きていくことを選んだ。
『夫のちんぽが入らない』は単なるセックスレスの話ではない。
何故、ちんぽが入らないのだろう。ちんぽが大き過ぎるのか、それとも受け手側が狭いのか。率直に抱かれる読者の疑問を前に、淡々とした事実が書き綴られていく。
(『夫のちんぽが入らない』著者のこだまさん)
物語は、大学に入学した「私」と後に夫となる男性が出会うところから展開していく。
大学卒業後、「私」は教職に就き、夫と結婚する。
お互いに親しい友人もいない2人にとって、結婚はとても自然で穏やかな選択だったが、もちろん、つき合ってから結婚するまで、ちんぽは一度も入っていない。
その違和感はやがて「ふつう」になれない疎外感として「私」を襲ってくる。
「私」は学級崩壊に遭い、教職を辞める。
そして、夫がほかの人には入れることができて、「私」もほかの人のものは入れることができることが判明してしまう。
“なぜ「ふつう」になれないのか。”
この種類の孤独感は、誰しも舐めたことがあるものと思う。
ちんぽを入れることのできない女を妻にさせてしまったという夫に対する「私」の負い目は、やがて闇となりより深いところまで堕ちてしまう――。
(cero『Orphans』Vo.高城昌平は本書の書き出しを読んでこの曲の着想を得たのだという)
遅ればせながらこだまさんの「夫のちんぽが入らない」拝読しました。“私たちが本当は血の繋がった兄妹で、間違いを起こさないように神様が細工したとしか思えないのです”の一文からOrphansを着想したのが3年前。
つづく→— 高城晶平(髙城 晶平) (@takagikun) January 26, 2017
こだまさんの本は今や街中の本屋に置かれていて、Orphansはカラオケに入っていて、どこかの誰かが唄っていたりする。3年前とは明らかに別の世界で、我々は生きている。そのことの不思議を噛みしめながら読みました。
あとがきが徐々に肉筆になっていく生々しさに心が震えた。— 高城晶平(髙城 晶平) (@takagikun) January 26, 2017
読後、『夫のちんぽが入らない』というタイトルは、本書を読む前とでは全く異なる感触になっている。
実際にちんぽを入れることができなかったという経験がある人は決して多くはないだろう。しかし、本書の読者が感じるかなしみや遣る瀬無さは、誰しも「ちんぽ」を入れることのできなかった経験を、実際の行為とはまた別のところで味わったことがあるからこそ感じるのではないだろうか。
『夫のちんぽが入らない』が抱える胸を裂かれるような寂しさは、「ふつう」と「自分」の間で苦しく揺れる葛藤から生まれたもののように感じた。
本書が多くの人の手に届いた理由は、一見共感できなさそうで、しかし共有できてしまう寂寥感と、読者の胸を打つ「私」の強さにあるのだと思う。
ちんぽを入れることができなくても、ふたりきりで生きていくことを選んだ「私」。
敬遠されるかも知れないというリスクを背負ってでもこのタイトルが付けられたのには意味がある。
『夫のちんぽが入らない』は、タイトルを見て手に取るのを躊躇う人にこそ、読んでいただきたい一冊だった。
『夫のちんぽが入らない』
2014年5月に開催された「文学フリマ」では、同人誌『なし水』を求める人々が異例の大行列を成し、同書は即完売。その中に収録され、大反響を呼んだのが主婦こだまの自伝『夫のちんぽが入らない』だ。
交際してから約20年、「入らない」女性がこれまでの自分と向き合い、ドライかつユーモア溢れる筆致で綴った“愛と堕落”の半生。“衝撃の実話”が大幅加筆修正のうえ、完全版としてついに書籍化!
発売日:2017年1月18日
出版社: 扶桑社
特設サイト:http://www.fusosha.co.jp/special/kodama/
Text_ Michiro Fukuda
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