ミーティア編集長 石野亜童の編集者遍歴
米田 : ここからは石野さんの話を聞きたいんだけど、石野さんも33歳までミュージシャンだったんですよね?
石野 : そうですね。音楽と編集者&ライターの二足の草鞋を履いて33歳まで。ライターのキャリアは22歳から。元々、高校の頃は都市計画とか環境デザインがやりたかったんです。美大に行って街づくりを学ぼうと思ってました。高校時代はずっと絵を描いてましたね。親父は広告の仕事をしていて会社を経営してたんですど、まあ色々あって美大の受験もできなくなって、遅ればせながら18歳でグレちゃったんです(笑)。
段ボールの上で書いた、はじめての原稿
米田 : 地元はどこですか?
石野 : 鹿児島です。高校卒業後は予備校に通いつつ、路上で弾き語りをしてたんですど、まあ、遊んでしまったんですね。それで滑り止めの大学にしか入れず、絵を描くことも辞めて。
米田 : 鹿児島の大学?
石野 : いや、東京です。19歳で東京に出て来て、音楽をやるか、旅と鉄道サークルに入るか考えた。旅と鉄道ってのは、女の子と旅したいなあくらいの動機で。何も考えてない奴でしたね。で、とりあえずハワイアンクラブっていうサークルに入りました。
米田 : 名前がチャラそう(笑)。
石野 : 先輩が優しかったんですよね。でも入ってみたら、ハードロックとメタルの先輩しかいなかった(笑)。僕はそこでフォークを始めて、それがその後の音楽の道につながるんだけど、大学2年の時に親父の会社が倒産して、大学を辞めざるを得なくなって。色々手伝いをするために全部引き払って鹿児島に帰りました。
米田 : 全部引き払った点では僕と一緒ですね(笑)。
石野 : うん、米田さんの話を聞いていてちょっと被ってるなと思った(笑)。その頃、友だちに「亜童はさ、本とか雑誌とか洋服とか好きなもの色々あるんだから、ライターやってみたら?」って言われて。ライターってなんだ?って話をしたら、たまたまその友だちが『Zipper』でライターのバイトをやってたんです。『Zipper』も含めて雑誌が元気だった頃ですね。
米田 : ’90年代の出版バブルの頃ですね。
ライター業と平行して、「sunaba」というバンドでデビュー、同時にライブや音源のリリースも行っていた石野氏(photography:MAKOTO MOTOMIYA)
石野 : まさに。友人の紹介だからコネで入れるもんだと思ってたんだけど、全然そんなことはなくて、雑誌のいちばん後ろにある募集欄から応募しました(笑)。確かテーマは「Zipperについての考察」的な感じだったような、、それが21歳、22歳くらいかな? 鹿児島の家を出るために引越し準備をしながら、その段ボールの上で論文を書いて送りました。そしたら、その論文を読んでくれた『Zipper』の編集長が電話をくれた。その頃は当然ガラケーなんですけど、留守電の声を自分の声にしてたんです。「もしもし!……とみせかけて留守番電話です」って、おちゃらけた感じで。そしたら編集部で「変な子がいるから呼んでみよう」という話になって東京に戻ることになった。そうして『Zipper』でお仕事するようになったんですね。
米田 : ライターデビューは『Zipper』だったんだ。
女性だらけの編集部で浮きまくった、ベルボトムジーンズのロン毛ライター。
石野 : ライターとしての最初の仕事は400字の編集後記。奥田民生さんのラジオを聞いて何か書けと。でもそれから程なくして、編集部内で「亜童君ってキモいよね」と言われるようになった。
米田 : ええ?
石野 : その頃インディアンに憧れてたから格好が酷かったんです。歩道のポールに掛かってるステンレスのチェーンあるじゃないですか? あれをウォレットチェーンにしてベルボトムに引っ掛けて、髪は超ロン毛。いっつもメキシカンパーカを着てました。女子ばっかりの編集部からしたら、とにかく気持ち悪かったんでしょうね。
米田 : 当時の写真あります?
石野 : どうだろう、「石野亜童」でググると出てくるかも。今日撮影してくれてるフォトグラファーの芹澤君はその頃からよく一緒に遊んでたから、知ってるとおもうけど。
ロン毛にベルボトム時代。なぜひまわりを持っているのかは本人も思い出せないそう。
Photography: ARATA KATO
石野 : 編集部に原稿は認めてもらってたんだけど、どうしてもあいつは生理的に無理だと。それで干されちゃった。そもそも最初は編集者やライターという職業も知らなかったし、服が好きだったから、じゃあ古着屋さんになろうと思ったんです。それで当時よく行ってた近所の古着屋さんに「バイヤーになりたい」と募集もないのに直談判。「経理なら空いてるよ」とミラクルなお返事(笑)。算数が苦手だから無理だなあと思ったけど、「まあいいじゃん。君面白そうだから入りなよ」って言ってもらってバイトすることに。経理の本を読んで勉強して、電卓でポチポチやってました。
米田 : いまこれジェスチャーで再現してくれてますけど、人差し指しか使わないスタイルね。算数苦手感が伝わる(笑)。
「世の中にあるメンズ誌全部やる」の勢いで過労
石野 : そのあたりで9.11が起きたんです。「アメリカには行けないけど、そろそろインドあたりの買い付けからやってみる?」と言ってもらって、ついに俺のバイヤー生活が始まる!というタイミングで『Zipper』時代にお世話になっていた編集者から連絡をもらったんです。「広告部に異動したんだけど、亜童、お前もう一回タイアップのページからやってみないか? 本気でやるんだったら戻って来ていいよ」と。それで再び出版の世界に戻りました。広告タイアップ記事の制作から入って、次第に本誌の企画などもやらせてもらえるようになって。そこからいろんな人たちと繋がって、お仕事の輪が広がっていきました。そんなこんなで20代はひたすらメンズ誌のお仕事をやらせてもらいまくっていましたね。
米田 : 石野さんは紙媒体出身だったんですね。
石野 : モロですね。その頃に音楽の方も事務所が決まって精力的に活動してました。ソロでどうかという話もあったんだけど、バンドがやりたかったし、それまで一緒にやってたメンバーを裏切ることはできないから。
(SUNABA『らららい』MV。このバンドのギターボーカルが、現ミーティア編集長の石野亜童)
米田 : そのへんも僕らちょっと似てますね。
石野 : そうですね。とにかく当時はすべてのメンズ誌に自分の名前を載せたい!と思っていたので、27歳と28歳の年末は過労で救急病院行きでした。1ヶ月に8媒体とかでお仕事させてもらってましたから。アポイントの電話ではどの媒体の企画をお願いしてるのかわからなくなった時もありました。過労の症状って2時間ぐらいで熱が40度超えるんです。ライブもあるし曲もつくんなきゃだし、撮影も原稿もあるからとにかく注射を!って医者に頼んだんですけど、「白血球増えすぎて注射したらショック状態になるのでとにかく寝てください」と言われて。そこで自分のキャパの限界値がわかりましたね。生命保険も入りました(笑)。
米田 : その頃の年末と言えば、僕は毎年さいたまスーパーアリーナにいました。K-1とプライドで格闘技のブームが来ていて、大晦日は格闘技の試合があったから。ちなみに音楽はどんなのが好きだったんですか?
石野 : 好きな音楽は色々あるけど、ギターを始めた理由はX JAPANのhideに憧れて、でした(笑)。
米田 : 僕はもう、中学の時にブルーハーツに衝撃を受けてギターを始めました。
石野 : ブルーハーツは僕も衝撃受けましたよ。
米田 : 当時は僕も絵を描いていたから、マーシーの肖像画を描いて、それが福岡市のコンクールで入選して表彰されて。福岡って、パンクロックとかめんたいビートとか、音楽は豊かな都市だったんで。
石野 : ファッションも豊かでしたよね。
米田 : そうですね。小学校6年生で学校で一番最初にチェッカーズの髪型をマネして、DCブランドを買って、MILKのトレーナー着て学校行ってました。まあ、ませた小学生でしたね(笑)。
石野 : ああ、懐かしいなあ。ガーゼシャツとか流行りましたよね。僕はルーツでいうと、親父が広告の人でしたし、オカンがスタイリストで、鹿児島でモデル事務所とかもやってたんです。だからファッション誌は早い時期から与えられてました。中学1年くらいだったかな。『MEN’S CLUB』と『流行通信』が最初でしたね。
米田 : 中1で『流行通信』を読んでる人はなかなかいないですよね。
石野 : あと、コンプレックスがすごくあったんです。足が短いとか色が黒いとか、筋肉がめちゃくちゃあるとか。大学入った頃は体脂肪6%だったんですよ(笑)。だから洋服に対する似合う・似合わないという感覚が人一倍あったんですよね。それが後に自分で雑誌を創刊する時のモチベーションになるんだけど。
米田 : なるほど。
石野 : 自分のなかでは20代でいったん雑誌をやりきった感覚がありました。それで30歳の時、先輩に誘われて広告制作会社をつくったんです。半年くらいでお声がけいただいて別の会社に移るんですけど、そこで2年間、ブランディングを学ばせてもらいながら大きな仕事もやらせてもらって、それからフリーに戻りました。
米田 : なんか、僕らの人生って刻みますね。2・3年刻みでいろんなトピックがある。
石野 : 本当ですね。自分にはなんにもないって思ってたけど、思い出すと結構話せますね。32歳でまたフリーに戻るんですけど、ずっと憧れていた『BRUTUS』と『POPEYE』に関わらせてもらっていました。で、35歳くらいの時に別の出版社から『THE DAY』っていう全国誌を創刊しました。これは、それまでのファッションとかライフスタイルに対するカウンターをぶつけまくった雑誌でした。「なんかカッコいいってなんだろう」ていうコンセプトを掲げて、“最終的にかっこいいやつは白TEE一枚で十分”っていうファッション誌(笑)。
『THE DAY(三栄書房)』
石野 : 編集長としてつくり続ける雑誌と並行して、これまたお声がけいただいて、京都のWEBメディアもローンチすることになって。京都の観光情報っていくらでもあるけど、京都ローカルの声って聞こえてこない。だから徹底的にローカルに潜って京都のホントを伝える、をコンセプトにしました。今日編集で入ってる馬場と一緒に京都に住んで、駆けずり回りましたね。それがWEBの世界への入り口です。その前後かな、『E inc.』という、ブランディングからクリエイティブまで全部やる自分の会社をつくりました。
米田 : ……ここまででたぶん25,000字くらいの原稿になってるよ(笑)。
石野 : ちょうど1時間くらい経ちましたね。
米田 : じゃあここから先は後編にまわしましょうか。
※後編はこちら>>音楽と編集の共通項。いいインタビューのために、編集者がやるべきこととは? 編集者対談 |石野亜童×米田智彦【後編】(FINDERS)
PROFILE:
米田智彦(よねだ・ともひこ)
1973年福岡市出身。出版社、ITベンチャー勤務を経て、文筆家・編集者・ディレクターとして出版からウェブ、企業のキャンペーン、プロダクト開発、イベント開催、テレビ、ラジオへの出演と多岐にわたる企画・編集・執筆・プロデュースに携わる。2011年の約1年間、旅するように暮らす生活実験「ノマド・トーキョー」を敢行。約50カ所のシェアハウス、シェアオフィスなどを渡り歩き、ノマド、シェア、コワーキング、デュアルライフといった新しい働き方・暮らし方を実体験。2014年3月から2017年6月までウェブメディア「ライフハッカー[日本版]」の編集長を務めた。TOKYO MXテレビ「モーニングCROSS」のコメンテーターとしても出演中。著作に『僕らの時代のライフデザイン』(ダイヤモンド社)『いきたい場所で生きる 僕らの時代の移住地図』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)等。京都造形芸術大学で非常勤講師も務める。2018年2月、株式会社シー・エヌ・エス・メディア代表取締役に就任。2018年春、ウェブメディア「FINDERS(ファインダーズ)」創刊。
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FINDERS
石野亜童(いしの・あどう)
1978年鹿児島県生まれ。雑誌編集に携ったのちブランディングカンパニーに入社。
その後『THE DAY』の編集長兼クリエイティブディレクターに就任。同誌を退いたのち、自身のクリエイティブカンパニー「E inc.」を設立。ブランディング、メディア製作、商品企画、WEBディレクション、空間演出など幅広いクリエイティブの分野で活動中。
Instagram(@adoman1978)
Column『日々murmur』
E inc.
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