「26歳、女性」。
これ以外の私のアイデンティティーって、なんだろうか。最近肉付きがよくなった自分の体をバスタオルで撫でながら、ふと思った。
ただ26年生きて、たまたま女として生まれたというだけ。
他に、「これが自分だ」って思えることって何かあったっけ。
真剣に考えてみたものの、その答えは全く出てこなかった。
これくらいの年齢になれば、自分なりに「ちゃんとした大人」になっていると勝手に思っていた。何の根拠もないくせに、ずっとそう思って生きてきた。そりゃあ人並みには辛いこともたくさんあったし、挫折も経験したけれど、それだけじゃ「ちゃんとした大人」にはなれないのかもしれない。
社会から見れば、今の私ってなんなんだ。
今まで勤めていた会社では、「若い女の子」という立ち位置になることがほとんどだった。飲み会では必ず上司や先輩たちに囲まれ、「若い女の子はここにいるだけで華やかだから、何にもしなくていいよ」と甘やかされた。若いというだけで、他に何にもなくても可愛がってもらえた。
しかし、いつまでも「若い女の子」ではいられない。
どこに行っても可愛がられるような、キラキラした女の子のままではいられない。
「若い女の子」なんてどこにでもいるし、代替可能な存在でしかない。会社だって、毎年新入社員が入ってくるし、その中には若くて可愛い女の子がたくさんいて。そんなふうに時が経てば、私の座っていたあの場所は誰かに取って代わられるのだ。そう思うと、女の子としての寿命は、おそろしく短い。
寿命は突然やってくる。誰も「そこはもうすぐお前の居場所じゃあなくなるんだよ」、なんて事前に教えてくれない。
私は寿命がやって来て「大人の女」に変身するまでに、そのことに気が付けなかった。与えられる環境で、与えられた果実をなんの疑問もなく食べ続けていた。その間、自分を磨くこともできていなかった。そして、何も与えられなくなった頃、ふと自分の空虚さを思い知った。
それが、今の私。
「若い女の子」ではなくなった私に、何が残っているか。私は今、何者か。
バスタオルで体を拭き終わったあとも、髪の毛を乾かし終わってからも、考えはまとまらなかった。
みんな、こんな風に考えたりするのだろうか。この年齢になって、ある日突然自分の存在意義がわからなくなったりするのだろうか。あるいは、みんなは確立された「アイデンティティー」をしっかり持っているのだろうか。
そもそも、「アイデンティティー」って誰が定義するものなんだろう。自分が決めた、他人との間に引いた境界線のこと。他人が決めた、自分の枠組みのこと。私はそんなことも知らないし、意識をしたこともなかった。
今更こんなこと友達にも聞けないなあと思う。「私」以外はみんな素敵で、自分を持っている人間に思えてしまって、なんだか、ぽつんと取り残されたような気になってしまうことがある。
いつか、自分のアイデンティティーを堂々と話せる日が来るだろうか。自分を認めてあげられるようになるだろうか。
今、アイデンティティーと向き合っているこの時間は、未来の自分を救うだろうか。
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