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▼音楽×文学
だが、今回のライブで最も注目すべき点は、音楽と映像の融合に加え、文学との融合が果たされていた点だろう。
それは、この360°ライブが小説『虚無病』の朗読とともに進行した点に如実にあらわれている。
音楽と文学の接点といえば、いま最もホットな話題はボブ・ディランのノーベル文学賞受賞の報せだろう。
ボブ・ディランは言うまでもなくアメリカの著名なミュージシャンで、音楽分野ではすでにグラミー賞などの華々しい受賞歴がある。
しかし、彼の歌を文学として評価し、ノーベル賞まで授与するというスウェーデン・アカデミーの決定は、世界中に議論を巻き起こしている。
文学は哲学や音楽など様々な分野を取りこんできたといわれるが、実際には逆かもしれない。文学はむしろ取りこまれてきた。それは酸素のように、なくてはならないものとして、人のいるところならどこにでも現れる。
音楽もそうだろう。
いまやそれは文学にも哲学にも見出せる。街中を歩けば、至るところで音楽と遭遇する。聴こうと思えば、山林でも荒地でも、いつでもどこでも音楽を聴くことができる。
したがって、音楽と文学がきつく結びついた今回のライブは決して特殊なものではない。
どちらもこの世界のすみずみにまで浸透し、混じりあい、すでに混然一体となっているからだ。
もっとも、このライブで音楽と文学の結束の固さを示していたのは、歌と小説とが協調していた点だけではない。
たしかに、小説『虚無病』の終末的な世界観に合わせるためか、歌われるナンバーにはダークなものが多かった。「穴を掘っている」、「アノミー」、そしてライブでは久々のお披露目となった、秋田ひろむの咆哮に圧倒される「カルマ」…。
しかしながら、「音楽」と「文学」とのこの結びつきには、実はディスプレイに出力される「映像」も一役買っていた。
そこに映しだされる歌詞の物理的量が、従来のamazarashiのライブに比べても格段に増えていたのだ。
とりわけ序盤(第1章から第2章まで)は歌詞が新聞記事のように配列されて出力されたため、眩暈するほどのその文章量によって、このライブと「文学」との親和性の高さが否応なく強調されることになった。「映像」を媒介にして、「音楽」と「文学」が結びついたのだ。
つまり、この360°ライブでは、歌×映像×文学の三位一体が顕現していたのである。
▼行け、名前より先へ
360°ライブをここまで整理してきたいま、改めて自問する。「これは何か」。
2016年10月15日、ぼくらはまだ名付けられていない何かを経験した。この記事は、その「何か」に対して「名前」を与えようとする試みといえるのかもしれない。ところが、そんな試みから逃れようとするかのように、秋田ひろむは「名前」についてこんなことを書いている。
僕を名付けられるのは僕だけだ
(ミニアルバム『虚無病』歌詞カードに掲載された詩「虚無病」)
「社会性、世間体、あらゆる分類から逃れて、/もう人間すらやめて、/自分で自分を定義しようと思う」と。
それでもぼくらは彼らの歌に、ライブに、生き方に、つい名前を付けようとしてしまう。「よく分からない何か」と曖昧なままにするよりも、彼らのことを知ろうとしてしまう。
それは、ぼくらがamazarashiを好きだからだ。好きだからこそ、聴こうとする、観ようとする、考えようとする。知ろうとする。すると、名前を付けてしまいそうになる。
けれど、amazarashiよ、どうかそのまま行ってくれ。この日のスピードで。ぼくらの命名より先へ、定義より先へ、自分自身の定義へと、あるいはもっと先へ。
名前はあとから付いてくるだろう。だがamazarashiの向かうところは、名も無き未踏の未来なのだ。
2016年10月15日夜、ぼくらはamazarashiとともに、未だ名付けられぬ何かを経験した。
セットリスト
<虚無病 第1章>
虚無病
季節は次々死んでいく
タクシードライバー
光、再考
<虚無病 第2章>
穴を掘っている
吐きそうだ
ジュブナイル
ヨクト
<虚無病 第3章>
アノミー
性善説
冷凍睡眠
カルマ
<虚無病 第4章>
逃避行
多数決
夜の歌
つじつま合わせに生まれた僕等
<虚無病 第5章>
僕が死のうと思ったのは
<エンドクレジット>
スターライト
エンディングSE:メーデーメーデー
オススメ記事: amazarashi LIVE 360° 「虚無病」直前特集 #5 〜小説『虚無病』レビュー
文:小澤裕雪
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