今回は、amazarashiの歌詞について、かなり詳細な分析をおこないたい。
言葉は基本的に音、意味、文字の3つの要素からなっている。
普通その3つは相互に関係しあっており、どれか1つだけが独り歩きすることはあまりない。
たとえば、数十ヵ国語を話すことができたといわれる伝説的な言語学者ロマン・ヤコブソンも、韻を踏んでいる単語同士は音声的に等価であるのみならず、意味的にも等価である点に着目している。
つまり、脚韻のなかで音が近似している単語同士は、意味的にも必ず関係しているというわけだ。
それは文字で書かれた詩に限ったことではない。歌われることを前提で作られる詞においても同様だ。もちろん、日本のポップミュージックも例外ではない。
音と意味が密接に関係しあう様子を、amazarashiの歌詞で検証してみよう。
amazarashiの最大の特徴の一つは、秋田ひろむの生みだす歌詞だろう。
特筆すべきは押韻の見事さである。彼はあるインタビューのなかで次のように述べている。
「(…)歌詞という意味では、日本の色んなジャンルの中でヒップホップが最先端だと思います。『春待ち』はヒップホップを意識したわけではないのですが『千年幸福論』くらいから韻を踏む事を意識しはじめて、今回のアルバムでひとつやりたい事がやれたなという感じがあります。個人的に『風に流離い』がヒップホップ的な構成だと思います」
(Rooftop 2013年4月号)
http://rooftop.cc/interview/130401161600.php?page=2
その『風に流離い』について、秋田ひろむはこう語っている。
「最初に最後のサビを思いついて、なんか言葉のリズム感が良くて、頭に残ってて、この最後のサビは今の僕の気持ちそのままなんですが、これを最後に置いてここに至るまでの気持ちを書けたらと思って作りました。(…)」
(Rooftop 2013年4月号)
http://rooftop.cc/interview/130401161600.php
その「最後のサビ」を引用しよう。
夢なんて無い 期待してない 無気力のまるで生きてる死体
だけど確かに 抗う歌に わずかながら空の光は射し
生きる力に 自ずと変わり 死に切れぬ僕の弁明と成り
風に流離い 理解し難い と言われても他に道など無い
風に流離い 理解し難い と言われても他に道など無い
風に流離い 理解し難い と言われても他に道など無い
この特徴的な音の響きを本人は次のように説明している。
「(…)「風に流離い」というフレーズは母音が“ai”で韻を踏む言葉を考えててふと出てきただけなんですが、どこに辿り着くか分からないままフラフラ歩いている感じが、今の僕にピッタリきたんだと思います。」
(Qetic 2013年4月4日)
http://www.qetic.jp/interview/amazarashi-7/96434/
ここで韻を踏んでいる「流離い」「無い」「期待してない」「死体」「理解し難い」という単語の数々は、いずれも否定的な意味のカテゴリーに属しているといえる。
つまり、ロマン・ヤコブソンが指摘したように、押韻しあう単語の意味が関係しあっているのだ(ここでは近似関係)。
これを踏まえ、『自虐家のアリー』の歌詞を分析してみよう。
『自虐家のアリー』に歌われている少女は、母親に虐待され海に身を投げたのではないか。そう推測することができる。
「いずれにしても立ち去らなければならない」ではじまる歌詞は、「あの海と一つになれたら」というアリーの悲しく健気な願望に光を当て、「波の随に 浮かんで」、「波の随に 沈んだ」彼女を浮かびあがらせる。
ところで、この少女はなぜ「アリー」と命名されているのだろうか?
この些末に思われる疑問を糸口に、『自虐家のアリー』における音と意味の関係を解きほぐしたい。
amazarashiの歌に人名が出てくることは比較的珍しい。
曲名ともなっている「ひろ」や『夏を待っていました』の少年たち、『雨男』の「聡」など、片手で数えられる程度しかいない。
今回の「アリー」が人名であること、それも外国の女性の名前であることは、かなり特殊な例だといってよい。
だからこそ、「アリー」でなければならない必然性を探してみたくなるわけだ。『自虐家の少女』ではなく『自虐家のアリー』でなければいけない理由。
まず考えられるのは、固有名詞の力だ。
代名詞ではなく「アリー」という固有名詞を出すことで、ここで歌われている出来事の現実味と、アリーが大多数のなかの「彼女」ではない、かけがえのない一人の人間であることを明示することができる。
アリーの悲劇を直感的に聴く者の心に刻みこむために、アリーはアリーでなければならなかったのではないだろうか。
ほかにも理由はありうる。
「アリー」は詩学上の必然から産み落とされたと考えてみよう。音の響きを考慮して、すなわち韻を踏むために、命名されたと。「アリー」と共鳴するのは「愛」である。
「アリー」という名前はこの歌のなかに3回出てくる。すべて抜きだしてみよう。
自虐家のアリー 波の随に 歌って
被虐者の愛 波の随に 願った
[…]
自虐家のアリー 波の随に 歌って
被虐者の愛 波の随に 願った
[…]
自虐家のアリー 波の随に 浮かんで
被虐者の愛 波の随に 沈んだ
「自虐家」と「被虐者」、「アリー」と「愛」が、それぞれ共鳴している。
ここでは、これらの単語は意味的にも共鳴している。
つまり、自虐家≒被虐者であり、アリー≒愛だ。少なくとも詩学の領域においては、両者は近似関係にある。
作詞した秋田ひろむ本人が、この歌では愛を描きたかったとインタビューで語っており、「アリー≒愛」説に真実味を与えてくれている。
「この曲に関しては自分でも何故作ったか分からない部分があって、1コーラスはメロディーと歌詞同時にすんなり出来たんですが、その後の展開をどうするかでとても悩みました。最終的にはただ虐待の悲惨さを描くよりは、愛についての根源的な部分を描きたいと思ってそうしました。子が親を愛するのは理由が無くて、一番原始的で一番無垢で、っていうところを表現したかったです。」
(Exite. music.)
http://www.excite.co.jp/music/close_up/interview/1502_amazarashi/?lead=2
言葉のうえで「アリー」と「愛」は響きあっている。
また現象のうえでもアリーは両親の愛によってこの世に生をうけた。
詩学的にも現実的にも、アリーは愛によって生まれたのである。
愛によって生まれたアリーは、母親から虐待された挙句に入水自殺を選ぶ。
しかし、この歌のなかでは、アリーから愛が生まれてもいる。
なぜなら、言葉のレベルでは「アリー」と「愛」は共鳴しているのであって、この二つは一方通行の関係ではないからだ。
アリーから生まれる愛は、もちろん私たちリスナーのもとに届くだろう。
では、今度はその愛を再びアリーにお返ししようではないか。
「あの海と一つになれたら」と願ったアリーは波に浮かび、やがて沈んでゆく。
これをやはり言葉のレベルで再考してみよう。
三好達治が「海」のなかに「母」があると詠ったように、「海sea」と「アリーAllie」を一つにするのだ。
双方のアルファベットを一緒にして並べ替えてみると、次のような文句ができあがる。
“Ease a ill.”
文法的に正しく書き直せば、 “Ease ills.” となるだろう。
すなわち「苦しみから解放せよ」。
自虐家のアリー。被虐者のアリー。せめて言葉のなかでだけは、安らかに(at ease)。
文:小澤裕雪
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