あの時、もしかしたら、あの子とやれたかも……。
誰しも、きっとそんな夜が一度や二度くらいはあるのではないだろうか。
漫画『やれたかも委員会』は、毎回違う相談者が訪れ、「やれたかも」な夜のエピソードを披露し、それを聞いた上で3人の判定員が「やれた」「やれたとは言えない」を判定する、という漫画である。
念のため最初に確認しておくと、この漫画における「やれた」は、何かのメタファーではない。言葉そのままの意味、つまりセックスのことである。「あの時、あの人とセックスできたんじゃないか」「うん、それは、やれたね」「いやいや、やれたとは言えないでしょ」、こういう内容の漫画について真面目に語ろうとするのが本記事であります。
ここから第一話が無料で読めるので、もし読んでいなければ、まずは一話だけでも読んでみてください。
漫画『やれたかも委員会』とは?
作者はサウナ漫画『フィンランド・サガ(性)』などの吉田貴司。
吉田が第1話をブログとnoteで公開したのは2013年のこと。それから時が流れ、2話目が公開されたのが2016年。はじめはほとんど反応がなかったらしいが、twitter上で公開していた漫画がバズるなどして掘り起こされ、cakesで連載されることに。Facebookでは1万3千回以上シェアされた。
公開されるたびに「やれた」「やれたとは言えない」などと読者がSNS上で盛り上がり、このたび書籍化が実現。
「委員会」を構成するのは3人。
犠星塾塾長の能島明(のうじまあきら)、ミュージシャンのパラディソ、財団法人ミックステープ代表の月満子(つきみちこ)というメンバー。
(財団法人ミックステープて……ありそう)
話の基本型としては、相談者の「やれたかも」なエピソードに対し、能島とパラディソの男2人が「やれた」と判定し、月満子が「やれたとは言えない」と判定する。人ぞれぞれの「やれたかも」なエピソードに加え、月満子が語る「やれたとは言えない」理由や、能島の「やれたかもしれない夜」に対する仰々しくありがたい一言が味わい深い。
そして3人の判定がすべて「やれた」になった時、奇跡が起きる……かも?
「いや、早くやれや!」「いやいや、それ全然やれてないっしょ」
やれなかった昔の話を、数年経った今「やっぱりやれたかも」と思い出しているということは、少なからず相談者には後悔があったはず。
もしあの時、もっと積極的になれたら……?
あの言葉、あの仕草は、何かのサインだったのでは……?
相談者の話の中には、「いや、早くやれや!おい!なぜそこでやらない!相手の反応にちゃんと応えなさい!」とツッコミたくなるエピソードもあるし、「いやいや、それ全然やれてないっしょ。ただの思い込みやん」とツッコミたくなるエピソードもある。
個人的な感想では、case03『焼きそら豆と内もものぬくもり』とcase04『プディング特集と絡まる指たち』、それからcase06『平成22年のミラーボール』は、「やれた」。
あれはやれた。間違いなくやれた。ていうかやれよ。むしろ君はグズグズしすぎて相手を傷つけてるからねこの場合。
でも、それ以外のケースでは「やれたとは言えない」。
しかし、この判定は人によって意外なほど別れてしまう。試しに筆者の周りにいる人たちにこの漫画を読ませたら、「やれた」「やれたとは言えない」の判定は、完全にバラバラだった。どうやら「やれた」「やれたとは言えない」の判定は、その人の性格や価値観や人生経験がかなり反映されるようだ。
誰かと酒を飲みながら「やれた」「やれたとは言えない」と判定し、その理由を話し合う。これ、結構盛り上がります。アホみたいだけど、楽しい。事実、本作のアイディアも、吉田が友達と「あの時こうしたらやれたんじゃないか、っていうのあるよね」と話している時に浮かんだそうだ。
保坂和志との対談が素晴らしい
アマゾンで書影が出ました。こんな表紙。帯はなんと小説家の保坂和志さんに頂きました。私が20代の頃から好きな作家でまさかの対談が実現しました。対談は単行本に収録されます!!むちゃくちゃいい話聞いたんで是非チェックしてください!https://t.co/SzWVZMmxKj pic.twitter.com/BI8ifOpa39
— 吉田貴司 (@yoshidatakashi3) 2017年6月20日
書籍版は、巻末に、作者である吉田貴司と小説家である保坂和志との対談が収録されている。これが、実にイイ。
保坂和志は小説『プレーンソング』で1990年に作家デビュー。代表作に『草の上の朝食』、『季節の記憶』、『未明の闘争』など。小説以外にも、『世界を肯定する哲学』や『書きあぐねている人のための小説入門』など著書多数。
保坂和志の作品には、既成の小説の概念を拡張する実験的・批評的なものが多い。
作中の物語性を意図的に薄めていたり、作中で時間が流れなかったり、人称が突然変わったりなど、一行読めばすぐに保坂だとわかる特徴的な文章が魅力。特に近年、小説だけでなくエッセイや対談などでもその傾向は強まっていて、いわゆるエンタメ作品からはかなり遠くにあるものが多い。だから、たとえば飛行機や新幹線の中でパッと読むような作品はほとんどなく、それなりに腰を落ち着けて読むべき本だと言える。
何が言いたいかと言うと、結構複雑なのだ。集中してないと何が書いてあるのかわからなくなる。
しかしこの対談での保坂は、ちょっと珍しいほどストレートであけすけに『やれたかも委員会』について語っていて、しかもかなり楽しそうだ。
自らも50代になるまでやれたやれないとか、自分をふった子や別れた女の子のことなんかを考えてた、なんてことを語りながら、その流れで「一番のドキドキはアクションを起こす瞬間」とか「作品論的に言うと、つまりこれは純愛もの」とか、解説として非常に読み応えのある発言をポンポンしている。保坂ファンにとってこれはたまらないものがあるだろうし、『やれたかも委員会』という作品の補足としてとても優れている。ここを読むだけでも価値あり。
保坂和志をも和やかにさせるほど、漫画『やれたかも委員会』には語りたくなる魅力があるということだろう。
人生は過去に押し戻されるーーやれた「かも」の力
保坂和志が指摘する通り、漫画『やれたかも委員会』は、やれた「かも」に焦点を当てたことがキモの一つになっている。
人生において、「やれたかも」な夜は、実際に「やれた」夜や「やれなかった」夜よりも強く記憶に刻まれるだろう。なぜなら、「やれた」場合も「やれなかった」場合も、そうなってしまった時点で、ある種のストーリーが決定的に失われてしまうからだ。どちらの結果であるにせよ、その後に展開していく新たなストーリーのほとんどは凡庸だ。
つまり、やれなければ、相手との関係は終わり。やれたとしても、良い夜でなければ、相手との関係は終わり。
あるいは、もしやれて、それが良い夜だったとして、さらに運良くリピートがあったとしても、そんなものはしょせん数回で終わってしまう。数年後には、年に一度思い出すか思い出さないか程度の「若い頃の思い出」フォルダに、他の多くの凡庸な思い出とともにしまわれてしまう。
だから、「やれた」でも「やれなかった」でもなく、「やれたかも」であることが重要なのだ。
そして、どれだけ充実した「やれたかも」を持てるかが、人生を支えてくれるような気がする。
ところで、少し話がそれるように感じられるかもしれないが、スコット・フィッツジェラルドという作家の『グレート・ギャツビー』という小説をご存知だろうか?
スコット・フィッツジェラルドは1920年代に活躍した小説家で、20世紀を代表する小説家。アーネスト・ヘミングウェイらとともに「ロスト・ジェネレーション」の一人に数えられる。日本にもファンが多く、たとえば村上春樹は自身で翻訳も手がけている。そのスコット・フィッツジェラルドによる最高傑作といわれているのが、『グレート・ギャツビー』。実らなかった恋を、富を得ることで取り戻そうとするジェイ・ギャツビーの哀しい純愛の物語(二度、映画化もされている。一度目はロバート・レッドフォードが、二度目はレオナルド・ディカプリオがギャツビーを演じた)。
スコット・フィッツジェラルドの小説『グレート・ギャツビー』は、とても印象的な文で物語が終わる。
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。
(村上春樹訳。村上春樹翻訳ライブラリー『グレート・ギャツビー』中央公論新社より)
この印象的な一節は、アメリカのメリーランドにあるフィッツジェラルドの墓に、墓碑銘として刻まれてもいる。
フィッツジェラルドが書いたように、もしも人生が絶え間なく過去へと押し戻されるものなのだとしたら、すでに乾いた結果の見えている「やれた」「やれなかった」夜よりも、「やれたかも」しれない夜に押し戻された方が良い気がする。「かも」の部分が、人生を前へ進める糧になるからだ。
押し戻されて押し戻されて、波に飲まれてしまいそうになった時、「やれたかも」にまつわる具体的なエピソードのいくつかが、自分を押しとどめ、救ってくれるかもしれない。「やれたかも」な夜は、自分の存在を肯定してくれる糧になるのではないか。
だから、「やれたかも」な夜は、一見下品なようでいて、実は人生の支えとなるような、希望のような夜のことなのだ。
漫画『やれたかも委員会』第1話1コマ目の最初の言葉はこうだ。
「生きる為の糧とは何であろうか」。
「やれた」とか「やれたとは言えない」とか、まるで中学生か高校生みたいな会話に聞こえるかもしれないが、実は深い深いテーマを含んだ本作。
この漫画を読むと、自分の「やれたかも」な夜が思い出され、絶え間なく過去へと押し戻される自分を鼓舞してくれる、かもしれない。
あるいは、この漫画を読んだ人と「あれはやれた」「いや、やれたとは言えない」と盛り上がったり、それぞれの人生における「やれたかも」な夜について語り合えば、きっと楽しい。
そうして語り合う夜は、あわよくば、新たな「やれたかも」な夜になるかもしれないし、ならないかもしれない……。
オススメです。
書籍情報
『やれたかも委員会』
新作が発表されるたびツイートが拡散! ネット発のヒット漫画の単行本化。
男なら(女でも)誰にでもある「やれたかもしれない夜」を回顧し愛おしむノンフィクション的漫画。
「あの日、俺は…やれたのか!?」 答えのない謎、永遠の未完成、
起承転結の結だけは永久に書かれることのない恋愛……。
そんな甘い痛みとしょうもなさを、デティール細やかに描いた傑作!
(Amazonページより抜粋)
吉田貴司twitter
やれたかも委員会公式twitter
吉田貴司note
クラウドファンディングページ(すでに終了、目標達成)
Text_Sotaro Yamada
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