「大瀧詠一さんを語る会」代表の栗原氏へインタビュー
これからの生活拠点を考えるにあたり、東京都23区外の多摩エリアが非常に魅力的なのでは?という予感のもと過去2回にわたりお届けしてきた多摩特集。
今回は、西多摩郡瑞穂町に暮らし、制作活動を行った大瀧詠一さんについて掘り下げていきます。
大瀧詠一(おおたき えいいち)
1948年7月28日、岩手県生まれのシンガー・ソングライター/作曲家。69年、細野晴臣らとはっぴいえんどを結成。73年に解散し、翌年にナイアガラ・レーベルを設立。自身の作品以外にも、シュガー・ベイブやシリア・ポールらのアルバムを発表。81年、精緻に構築したサウンドを洗練されたポップ・センスで包んだアルバム『A LONG VACATION』が大ヒット。日本のポピュラー音楽に絶大な影響を与えた。2013年12月30日に急逝。65歳没。
大瀧詠一さんは日本語ロックを切り開いたミュージシャンであり、レーベルの主宰者、プロデューサー、エンジニア、アレンジャー、伝説的ラジオ番組「ゴー・ゴー・ナイアガラ」のDJとして、また日本映画・野球・相撲など幅広い分野において突出した知識を持ち合わせていた文化人として、日本のポップス・カルチャーシーンに計り知れないほど大きな影響を与えた方です。
暮らした町を訪れて知る、大瀧詠一さんのローカリズム。
そんな大瀧さんが、都心からすこし離れた瑞穂町に生活と制作の拠点をおいていたことを教えてくれたのは、第1弾でお話を伺った雑誌『たまら・び』でした。
『たまら・び』No.101 武蔵村山市と瑞穂町 特集より
大瀧さんが暮らしていたのは、瑞穂町のなかでも横田基地にほど近いエリア。米軍ハウスを自宅兼スタジオとして制作活動やラジオ番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』の収録を行っていました。
現在、瑞穂町図書館では大瀧詠一さんのCDや本の貸出を行っているほか、レコード・写真・グッズなどゆかりの品々が展示されており、またそれらの動きを中心になって進めているコミュニティ「大瀧詠一さんを語る会」が定期的に催しを行い、全国から人が訪れる盛り上がりを見せているそうです。
大瀧さんが暮らした町は、どんなところなのか?なぜ人が集まり続けているのでしょうか?
瑞穂町を訪ね、中心人物である栗原勤さんにお話を伺いました。
都心から瑞穂町図書館まで、電車とバスを乗り継いでおよそ1時間半ほどで到着。
「大瀧詠一さんを語る会」代表の栗原勤(くりはら つとむ)さん(66)。瑞穂町生まれ瑞穂町育ち。20代から立川のレコードショップに勤め、現在は会社員の傍らレコードマニアとして多くのコレクションを所蔵し「昭和歌謡レコード展」なども開催。
――こんにちは!今日はよろしくお願いします。
栗原 : わざわざ遠いところまで来ていただいてありがとうございます。
――本当は、先週あった「大瀧詠一さんのレコードを聴く会」にも参加したかったのですが、タイミングが合わなくてすみません。
栗原 : いえいえ!今後も開催する予定なので、次回また来てください。でも、すごく盛り上がったので、ぜひ体感してほしかったというのもあります(笑)。
――Facebookページで写真を拝見したのですが、たくさんの人が集まっていましたね。
栗原 : 今回は100名以上集まりました。瑞穂町の方へ向けて、という名目を掲げましたが、約90名が町外からの参加でした。新潟から来られた方もいましたね。
――「語る会」の催しには主にどのような方々が参加されているのでしょうか?
栗原 : 大瀧詠一さんにリアルタイムで影響を受けている私たちの世代がいちばん多いですが、10代~70代まで、北は北海道から、南は沖縄まで、日本全国から来てくれていますね。この間は、参加者のなかに上海からの留学生の方もいて、23-4歳くらいと若いのに楽曲への知識も豊富で驚きました。4年ぐらいまえにレコードで大瀧さんの楽曲を知って、大好きになったということで。
――今、細野晴臣さんや山下達郎さんの楽曲も海外の若い世代に広まっているようで、大瀧さんの楽曲も同じ流れになっているのかもしれないですね。
栗原 : なんだか、そのような動きになっているみたいですね。「語る会」をやっていると、若い世代の情報や聞き方の話も出てきて、楽しいです。
――もともと、「大瀧詠一さんを語る会」はどのようにしてはじまったのでしょうか?
栗原 : まず、大瀧さんが亡くなられて1ヶ月と経たないうちに、瑞穂町図書館が追悼展示を行ったんです。
当初は入り口すぐのところに追悼展示コーナーが設けられたそう
現在は、2Fにある視聴覚室の一角が展示コーナーに。栗原さんをはじめ、コレクター、ファンの提供による貴重な資料が並んでいる
栗原 : 全国から大勢のファンが瑞穂町を訪れたのですが、どこかみんな行き場のない思いを抱えていて。自分もひとりのファンとして、地元の人間として何かできできないかなぁと考えて、図書館の隣にある「ふれあいセンター」でひとりで企画して実施してみたのがはじまりです。
栗原 : 告知はネット上ですこし行っただけなのですが、会場に入りきれないくらい、80名以上の人が集まりました。私が企画した、といっても主に参加者のみなさんからお話を聞くための集まりでした。
――栗原さんがおひとりで語る!といったものではなく。
栗原 : そう、参加した方々全員に、大瀧詠一さんにまつわることをお話してもらうのがメイン。ところがそれだけの集まりが、ものすごく盛り上がったんです。
栗原 : 楽曲の思い出から、ご近所に暮らしていた方だったり、どこそこでお会いしたとか、大瀧さんにうな重をごちそうになったことがある、とか。聞いたことのない話がたくさん出てきたんです。
EACH TIMEのPOPなどは、栗原さんによる提供。レコード店時代に販促用に店頭に飾っていたものを、保管しておいたのだそう
栗原 : そのうちに貴重なデータを持っている人や、協力してくださる方も現れてね。瑞穂町郷土資料館 けやき館 での特別展「GO!GO! NIAGARA 大瀧詠一の世界」の開催にもつながりました。
2016年と18年に開催された特別展『GO! GO! NIAGARA 大滝詠一の世界』では述べ1万人以上の来場者が瑞穂町に訪れた
――今はどのくらいのペースで催しを開催しているのでしょうか?
栗原 : おおよそ、年に10回くらいですね
――ほぼ月イチ!
栗原 : もっとやってほしいという声もあるくらいで、はじめはわざわざ遠方から来てもらうのも忍びない、と思っていたのですが、みんなお喋りしたいと。大瀧さんはその場にいないけれど、話が尽きないんですね。
――これまでに、特に印象的だった「大瀧さんはこういう方だった」といったお話はありますか?
栗原 : 自分で「語る会」を主宰しておきながら、矛盾するようなのですが、大瀧さんと特に親しかった山下達郎さんがラジオやインタビューでよく仰っているのが「大瀧詠一を語れる人はいない」ということなんです。
――大瀧さんを語れる人はいない!?
栗原 : 大瀧さんが書いてきたもの、発言、すべてをまとめても、理解し尽くせる人はいないということで、私もそのとおりだと思います。なので、今日お話することも、その前提で聞いていただきたいのですが(笑)。
栗原 : 語る会のなかでは、大瀧さんの楽曲を分析したり、元ネタを見つけてきたり、といった話もあるのですが、私個人としては、何よりもラジオDJとしての大瀧さんに影響を受けているんです。
1975年〜83年にかけて8年間に渡り放送された伝説的深夜ラジオ『ゴー・ゴー・ナイアガラ』
栗原 : 今でこそ、何度も再放送が行われたりして一般的になっていますが、深夜帯のラジオですし、リアルタイムで聴いていた人はコアなファンか、けっこうな音楽好きな人たちでした。
栗原 : 大瀧さんはラジオや書籍を通じて、膨大な知識と資料の裏付けをもとにアメリカンポップス伝や日本ポップス伝、明治時代からの日本の歌謡曲の歴史〜アメリカンポップスの系譜まで、すべてを俯瞰して分析して教えてくれていたんです。
――そこから、新しい世界をどんどん知るわけですね。
栗原 : そうです。大瀧さんをきっかけに、音楽のことだけでもいろんな知識が増えていく。「語る会」のなかでは、大瀧さんの影響でエルヴィス・プレスリーに特化して研究を進めている方もいたりして。
栗原 : 放送当時はマイナーなラジオだったので、その面白さを周囲のひとと共有することもなく、ひとりでじーっと聴いていた人ばかり。自分も含めて、そんなひとたちが、ここにきて似たような経験を持つ人々と「語っていいよ」という場に集うわけです。そりゃあ、話が尽きないですよね。
――いいなぁ、楽しそうだなぁ、と思うと同時に、詳しくない人間は参加して良いのだろうかとためらってしまう気持ちもあります。
栗原 : そこは実はすごく気をつけていて...昔から、超マニアのひとが大勢いたんです。でも、あんまりマニアックすぎると、ちょっと面倒くさいじゃないですか。
――あまり知らないひとからすると、引け目を感じてしまいますね。
栗原 : なので、知識をひけらかすような態度や発言は一切しないというのが、語る会の基本です。
レコード店時代から、そういった人たちは嫌というほど見てきたので、と語る栗原さん。大瀧詠一さんビギナーにとっては有り難すぎるスタンス
大瀧詠一さんはなぜ、瑞穂町に暮らし続けていたのだろう?
――今回ぜひお伺いしたいことだったのですが、なぜ、大瀧詠一さんは生活の拠点として、瑞穂町を選んだのでしょうか?
栗原 : まずはやはり、横田基地や福生の存在が大きいと思います。70年代、ベトナム戦争が終わって空きが出たアメリカンハウスに次々とミュージシャンや芸術家、作家が住み始めて「何か新しいものが生まれる空気」が満ちていました。
私もよく遊びに行っていたし、まさに村上龍さんの小説(『限りなく透明に近いブルー』)の世界がありました。
――その時代の話は、今の20-30代からするとすごく羨ましいです。
栗原 : 文化的にも最先鋭の場所でしたし、小さいころからFEN(在日米軍向けラジオ放送)を聴いていた大瀧さんがそこを制作拠点に選んだのは自然な流れだったと思います。
――ひとつ不思議なのが、アメリカンハウスの文化はある種一過性のブームというか、細野晴臣さんや忌野清志郎さんらも居住していたのは主に70年代の一時期だったという印象があります。大瀧さんは、2013年に逝去されるまでずっと暮らしていたのですよね?
栗原 : そうですね。「大瀧詠一の青春展」を盛岡で開催したときに、大瀧さんの同級生や、一緒にバンドを組んでいた方々とお話したのですが、大瀧さんが生まれ育った故郷と瑞穂町は、風景が似ているんですね。山に囲まれていて、米軍基地があって、FENがあって、似たような音が鳴っている。単にアメリカンハウスに惹かれた、というだけでなくて、しっくりきた部分もあったのだと思います。
――はぁー、なるほど。
栗原 : それからもうひとつ、大瀧さんはご家族をすごく大切にされていました。
たとえば、レコードのジャケット写真に、お子さんが写っていたり、ライナーノーツにも、スペシャルサンクスの欄にご家族の愛称が記載されていたり。
栗原 : 当時日本人のアーティストでそのようなことをやる方はあまりいませんでした。また1997年に『しあわせな結末』ができたときに、奥さんをドライブに連れていって、音源を聴かせて、感想をもらうようにしたり、そういったことも自著に書いてあります。
――もうひとつ、大瀧詠一さんといえば福生のイメージが強いです。瑞穂町、ということはあまり表には出されていなかったのですか?
栗原 : それが、隠していたわけでもなくて、1978年にリリースした曲の歌詞のフレーズで「ダウンイン西多摩郡」と言っていたり、さまざまな変名のなかのひとつで「瑞穂の大瀧」として曲をつくっているものもあったんです。
栗原 : 1976年の『ミュージック・マガジン』でスタジオが特集された際も小さく「西多摩郡瑞穂町」と町名が書いてあって、ふつうに公表するんだなぁ、と驚きました。福生とよく謳っていたのは、全国的な知名度もあるし、文化圏としての福生の意味合いが強かったのかなと思います。
――特に、拠点がどこにあるかを隠されていたわけでもないのですね。
栗原 : 大瀧さんは縁を大切にする人で、ファンの人でもスタジオに招いたりといったこともされていたようです。遅い時間になったら、車で小金井あたりまで送ってもらった、という方もいました。また、この瑞穂町で普通の暮らしを営んでいたことは確かで、自転車でうろちょろしたり、好きな蕎麦屋さんに通ったり、公園を散歩したりしていたようです。
――都心に暮らしてると、否が応でも著名人・ミュージシャンは注目されてしまいますが、特別扱いされず「ふつう」でいられることがよかったのかもしれないですね。
栗原 : 移動もほとんど車だったでしょうから、ここから国道に出て、八王子インターから都内へ中央道でまっすぐなんです。
首都高へ出れば、朝だったら1時間もかからないで都内へいけるし、そのあたりの不便もなかったんじゃないかなと思います。
大瀧さんと、もし会っていたら
――栗原さんもスタジオへ遊びに行ったりなどはされましたか?
栗原 : それがですね、大瀧さんとは直接お会いすることはできなかったんです。40年近く同じ町に暮らしていて、音楽の仕事をしているから、そのうち会えるだろうと思っていたら、急逝されてしまって。1度も直接お会いすることができなかったんです。でも、今になっておもえば、会えなかったことが、良かったのかなぁと思います。
――会えないほうがよかった?
栗原 : 実際にお会いしていたら、遠慮してしまって、「語る会」のような活動はやっていなかったかもしれないと思うんです。
栗原 : お会いしたかった気持ちは、もちろんあるし、お話したいこともたくさんありました。でも、それも「会えなかったという縁」なのかなと思うようにしています。
移動中、たまたま「大瀧詠一さんを語る会」の立ち上げなどを一緒に行った、瑞穂町図書館の前館長さんともお会いできました。この方がいたからこそ、実現できたことも多いと栗原さんはおっしゃっていました。
――お会いできなかったからこそ、こういう活動があると。
栗原 : 最近音源としてリリースされた、1977年ナイアガラファーストツアーの渋谷公会堂公演というのがあったのですが、私も行っていたんですね。そしたら「語る会」を通じて出会った人のなかに、あのとき、同じ場所にいたひとが、4人もいたことがわかって。
――すごい、何十年越しに、そのときの空間を共有した人が。
栗原 : 他にも、1973年のはっぴいえんどの解散コンサートの場にいた人が、「語る会」で3人居合わせたりしてね。あのときいたんだね!あははって笑い合って。
――そういった共通の体験があると、今になってはじめて出会ったとしても、昔からの友人のような気持ちになりそうです。
栗原 : まさに、同窓会みたいなもので。あの場を共有してたことと、その感動が、いまだに残ってるから、こういう集まりにくるわけじゃないですか。
栗原 : みんなネットでみたり新聞でみたり、テレビのニュースでみたりなんかみて、わざわざ瑞穂町に来て、大滝さんいないのに、集まってきて、ただ語り合う。
――すごいことです。
栗原 : これはまたひとつの縁だよね、大きな。
――またそれで瑞穂を知ったり、いろんな方の話を聞いて、新しい世界が広がるわけですもんね。
栗原 : そういえば、語る会に来ていた22歳の子が、最近カセットの通販をはじめたとかで、挨拶にきてくれたんです。
――へぇー!いいですね、カセット。
栗原 : その子には、カセットに録音してあるゴー・ゴー・ナイアガラの音源をデータ化してもらうようにお願いして、20〜30年前のカセットを300本ぐらい一式貸してたんですよ。
そしたら、カセットテープそのものにはまったらしくて。自分でカセットにまつわる商売をはじめたそうです。
――すごい。どんどん次につながっていっていますね。
栗原 : 好きで、楽しくて集まっているのですが、そうやって何か次の世代に渡していけるのは、すごく嬉しいですね。
おまけ:『A LONG VACATION』の次に聴くべき名盤、読むと良い本。
大ヒットした『A LONG VACATION』だけは持っているけれどまだ大瀧詠一さんの楽曲を他にあまり聞いたことがない…というような人が、次に何を聴くと良いかを教えてもらいました。
『DEBUT AGAIN』
「何を聴くべきかというと、それはもう全部聴いてほしいですが(笑)、強いて挙げるとすると『DEBUT AGAIN』。2016年に32年ぶりのオリジナルアルバムとしてリリースされた、セルフカバー集で『熱き心に』や『風立ちぬ』『夢で逢えたら』などこれまでに大瀧さんが制作・提供してきた有名曲を本人が歌ったもので、大瀧さんをあまり聴いたことがない方にもおすすめです(栗原)」
『増補新版 大瀧詠一 (文藝別冊/KAWADE夢ムック)』
「今手に入れることができる本は限られてきていますが、文藝別冊の特集は大瀧さんが自身の活動を振り返ったインタビューや音楽論を読むことができて、大瀧さんに興味を持った方にはおすすめです(栗原)」
<訪れた場所>
瑞穂町図書館
住所:東京都西多摩郡瑞穂町大字石畑1962
電話:042-557-5614
開館時間(本館): 9:00~18:00 ※木曜日は9:00~20:00
休館日(本館):毎週月曜日 / 祝日(地域図書室のみ)/ 毎月16日
WEB:https://www.library.mizuho.tokyo.jp
※西多摩郡・武蔵村山市の住民は瑞穂町図書館でCD・書籍をレンタルすることができます。
瑞穂町郷土資料館 けやき館
住所:東京都西多摩郡瑞穂町大字駒形富士山316-5
電話:042-568-0634
開館時間 : 10:00〜21:00
休館日 : 第3月曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始・臨時休館日
WEB:http://www.mizuhokyodo.jp
<関連リンク>
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