「これは何か」。
ホールの中央やや奥に設えられた舞台のうえに、amazarashiが立っている。その四方には透過性LEDディスプレイが巡らされており、まるで箱のようだ。
「涅槃原則」の教祖と思しきクニヨシの姿がその4つの側面に映しだされ、360°の全方位にむけて、つまり「私/ぼく」にむけて、語りかけてくる。
次いではじまる小説『虚無病』の朗読。「観察報告書」、「おしなべて無気力、無感動」、「“言葉”による感染」、「精神疾患の可能性」…。歌のないライブ。
「これは何か」。
初めての経験に戸惑い、胸がざわつく。目を凝らし、耳をすませ、頭をフル回転させる。いま、ぼくは新しいものを目撃している。いや、体験している。「これは何か」。そう自問する。
やがて新曲「虚無病」が披露され、すぐにヒットナンバー「季節は次々死んでいく」がつづく。ようやくライブらしくなってくる。
舞台を取り囲むディスプレイに映像が出力される。360°ライブの面目躍如といったところか。そればかりかスクリーンのない天井や壁にも様々な映像が投影されてはそこで像を結び、そしてほどけてゆく。
だが、しばらくするとふたたび小説『虚無病』の朗読がはじまる。そうかと思えば、ディストーションをかけた激しいギター・デュオを次曲のイントロへ繋げるなど、音楽的なダイナミズムも盛りこんでくる。
音楽、映像、文学の融合したこのライブは、いったい何なのか。何だったのか。
少し整理しながら振りかえってみよう。
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▼ライブ・スタイル
2016年10月15日。
秋田ひろむの小説『虚無病』では「虚無病症候群」が「突発的に発症」しはじめたとされるこの日、幕張メッセイベントホールにてamazarashi LIVE 360°「虚無病」が開催された。
ホールの中央やや奥には、amazarashiが演奏し歌う舞台が整えられている。それを四方から観客が取り囲む。
amazarashiの立つ舞台は透過性LEDの張りめぐらされた箱といっていい。その4つの側面に映像が随時映しだされる。演者たちの顔が大写しにされることはない。
ボーカルの秋田ひろむ含め演者らの姿を表に出さないというこのスタイルは、これまで彼らがずっと守りつづけてきたamazarashiのライブ・スタイルだ。
顔ではなく歌、そして映像で観客を魅了してしまえるよう演出されているのである。
こうしたライブ・スタイルは、奇しくも同じ幕張メッセで同日開催されていたもう一つのライブ「VISUAL JAPAN SUMMIT 2016」(http://visual-japan.com)と好対照をなしている。
それに出演するX JAPANやGLAYなど、日本の音楽シーンを牽引してきた、いわゆるヴィジュアル系バンドの面々は、演者たちの姿を音楽要素のひとつとしてクローズアップしてきたからだ。
これに対して、amazarashiは逆に自分たちの姿を隠すことによって、自分たちの音楽を追求しているといっていいだろう。
これから触れるように、彼らがヴィジュアル=映像面にも非常に高い関心を払っている以上、ヴィジュアル系バンドとの差異を殊更に際立たせる必要は全くないが、同日の双方のライブが、双方のライブ・スタイルの対照性を際立たせる結果となったのは興味深い偶然だったといえる。
▼音楽×映像
さて、amazarashiは映像作家YKBXとタッグを組み、傑出したMVの数々を世に送りだしてきた。
たとえば、3DCGを2Dアニメーションと巧みに融合させた『夏を待っていました』は、第14回文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門で優秀賞を獲得するなど、高い評価を得ている。
ほかにも、amazarashiは映像面での革新的な技術をMVやライブに積極的に取りいれてきた。
世界初と謳われた、リアルタイムでの顔面プロジェクションマッピングを用いたMV『エンディングテーマ』や、2015年8月16日に豊洲PITでおこなわれたライブ「5th anniversary live 3D edition」での3D映像の使用などが好例だろう。
今回の360°ライブにおいても、先進的な映像技術を駆使した挑戦的な試みが見られた。
透過性LEDディスプレイ、ホールの壁や天井をスクリーンに見立てた投映、そしてダンサーのモーションキャプチャー。
もちろん、舞台の四方に映像を出力して、それを360°どこからでも観客が目撃できるようにするという視聴スタイルそのものがすでに画期的な実験といえる。
では、このような360°の一覧性には、どのような目論見があったのだろうか?
その答えのヒントになるのが、本サイトに掲載している秋田ひろむへのインタビューだ。小説の内容とライブを同時進行させる試みについて訊かれた彼は、次のように答えている。
amazarashiの楽曲は皆さん好きに解釈してもらって構わないんですが、一つのストーリーを追って演奏する事で、曲の意味をみんなで統一して共有することで、よりカタルシスを得られるのではないか、という試みです。音楽においてはあらゆる手法を試したいと思ってます。
(『MEETIA』2016年10月)
https://meetia.net/interview/amazarashi-live-360-4/
「共有」が鍵だといっていいだろう。
同じ曲、ストーリー、感情を「共有」するために、360°ライブという一覧性は持ってこいだったわけだ。
誰がどこにいても、同じように演奏を聴き、観ることができる、したがって「曲の意味をみんなで統一して共有すること」ができるからだ。
実際、演出面でもこの「共有」を促進する試みがあった。
いままさにライブを聴いている観客をディスプレイに映しだしてみせたのだ。演者と観客とをリアルタイムでディスプレイ上において文字通り一体化させるこの驚くべき演出のおかげで、「共有」の感覚は強まったにちがいない。
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