宇多田ヒカル、12年ぶりとなる国内ツアーをレポート。
宇多田ヒカルが8年ぶりのライブ、国内ツアーとしては実に12年ぶりとなる『Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018』を開催し、12月9日、幕張メッセにてファイナルを迎えた。本ツアーは11月6日の横浜アリーナを皮切りに、6都市12公演をまわってきた。本記事では、12月5日にさいたまスーパーアリーナで行われたライブをレポートする。
Text_Sotaro Yamada
宇多田ヒカルって、本当に存在してたんだ。
BGMもSEもまったくない。ただの無音で、ステージ真上の照明だけがオレンジ色に発光している。3万人以上のオーディエンスで埋まったさいたまスーパーアリーナには緊張感が漂っていた。やがて場内アナウンスが流れると大きな拍手が起こる。ステージにストリングス隊やバンドメンバーがセットする。
やや時間をおいて、ステージ中央真下からのせり上がりで宇多田ヒカルが静かに登場。両脇の巨大スクリーンにも宇多田ヒカルの姿が映った。オーディエンスが思わず驚きのため息を漏らすなか、1曲目『あなた』でライブはスタートした。
人は本当に感動した時、すぐにはうまく反応できないものだ。多くの人がまず本人に見入り、その歌と音に聴き入った。背中のあいた黒いドレス、まったくブレることのない伸びやかな歌声。初めて宇多田ヒカルの生歌を聴いた人も多かったはずだ。「宇多田ヒカルって、本当に存在してたんだ……」という感想を持つ人だっていたに違いない。
2曲目の『道』がはじまると、ようやくフロアから手拍子の音が聴こえてきた。宇多田ヒカルの楽曲はメロディに特徴があるとよく言われるが、『初恋』特設サイトで小袋成彬が指摘しているように、それと同じくらい重要なのがリズムだ。宇多田自身は「私はメロディ自体をリズムとして捉えてる」と言う。
宇多田ヒカル『初恋』特設サイト「宇多田ヒカル 小袋成彬 酒井一途 座談会」
メロディとリズムが一体となった楽曲は、生演奏においてさらにその効果を発揮する。『道』から『traveling』へ、さらに『COLORS』へ。まるでこの3曲が長いひとつの楽曲であるかのようにシームレスに繋いでいく。
『Kiss & Cry』では『Can You Keep A Secret?』のフレーズ「hit it off like this」をサンプリングしてマッシュアップさせ、『SAKURAドロップス』のアウトロでは自らシンセサイザーを弾いた。『ともだち』では『Forevermore』のMVで振り付けを担当した高瀬譜希子が登場してコンテンポラリーダンスを披露し、『Too Proud』ではラップを披露するなど、様々な試みを混ぜながら楽曲をアレンジしていく。
「どんなに絶望的な状況でも、ユーモアがあれば見方を変えることができる」
中盤では、ステージの大スクリーンにショートフィルムが映し出された。内容は、芸人であり作家でもある又吉直樹との対談。NHKのテレビ番組『SONGS』での初対談を思い起こさせる。
宇多田ヒカルによると、今回のツアーには「希望と絶望」というテーマがあるという。これは彼女がたまたま見たティグ・ノタロのショーにヒントを得たそうだ。ティグ・ノタロはアメリカのコメディアン。C-Diffという感染症で生死の境を彷徨い、母を事故で亡くし、恋人と別れ、さらには乳がんを宣告されて乳房全摘出手術を受けることに――これらの出来事が数ヶ月の間に一気に起きるという壮絶な人生を経験した人だ。それほどの状況なのに、その絶望をネタにしてノタロは一躍有名になった。そうしたノタロの姿勢から、宇多田ヒカルは「どんなに絶望的な状況でも、ユーモアがあれば見方を変えることができる」と感銘を受けたのだという。
なお、ノタロの自伝的ドラマはAmazon Primeで、ドキュメンタリーはNetflixで視聴することが可能。
ドラマ『ワン・ミシシッピ〜ママの生きた道、ワタシの生きる道〜』
ドキュメンタリー『ティグ:それでも立ち続ける』
対談は宇多田ヒカルの歌詞の内容や又吉が芸人を目指したきっかけなどに及び、やがて「笑いの語源は“割る”という説」という又吉の一言を境に意外な展開を見せる。
衝撃の“一打”により、会場には一瞬戸惑いがうまれ、戸惑いはすぐに笑いに変わり、笑いは爆笑の渦となってさいたまスーパーアリーナを満たした。又吉直樹による見事な脚本と2人の演技に、大きな拍手が起きた。
「今まででいちばんライブを楽しんでいる自分がいる」
ショートフィルムが終わると、フロア中央にステージが出現し、黒と白のドレスに着替えた宇多田ヒカルが登場。フロアがざわつくなか、『誓い』『真夏の通り雨』『花束を君に』を全方向に向けて歌う。
『花束を君に』のアウトロでメインステージに戻ると、「いろんなことがあって、一時期は人前に出るのは無理なんじゃないかと思った」と本ツアーに至るまでの心境を吐露。
「明るい光が苦手になって、撮影時にはフラッシュを使わないでください、とお願いしなきゃいけないときもあった。仕事を開始したはいいけど、どうやってライブをやったらいいのか、ライブできるのか自分でも心配だった。このツアーが始まるまで大丈夫なのか分かっていなかった。でもやり出したら、今まででいちばんライブを楽しんでいる自分がいる」
宇多田ヒカルの言葉に、会場は大きな拍手で包まれる。『First Love』と『初恋』を歌いきったあとはさらに大きな拍手が起き、それは数十秒間も続いた。
本編ラストは『Play A Love Song』。カラフルで幻想的な映像、オーディエンスの手拍子、後半のゴスペルのような圧巻のコーラスなど、ハッピーなムードは終わることがないように思われた。
演奏が終わっても拍手は鳴り止まず、オーディエンスはスマホのライトをかざしてアンコールを呼び込む。数千という光が綾なす美しい光景のなか、宇多田ヒカルはTシャツ姿で再登場し、『俺の彼女』からアンコールがスタート。バンドメンバーの紹介を挟み、すべての関係者に感謝と拍手を送ったあと、デビュー曲の『Automatic』(ここでも数十秒続く長い拍手が起きた)と活動休止直前にリリースした『Goodbye Happiness』を披露。
満員のオーディエンスを嬉しそうに見ながら、最後は深々とおじぎをして、宇多田ヒカル8年ぶりのライブ、12年ぶりの国内ツアーは幕を閉じた。
『暗闇のなかの笑い』と『カメラ・オブスクーラ』
さて、ツアータイトルの『Laughter in the Dark』は、宇多田ヒカルが敬愛するロシアの作家ウラジーミル・ナボコフによる小説『暗闇のなかの笑い』に由来する。
この小説は、1932年に『カメラ・オブスクーラ』と題されて雑誌連載され、翌年にフランス語に翻訳、その3年後に英訳版が出版された。しかしナボコフ自身が英訳に強い不満を持ったことで、自ら英訳し直した決定版をアメリカで刊行。『暗闇のなかの笑い』と改題された。
重要なのは、その際、設定を一部変更し、大胆な削除や書き換えが行われたということだ。登場人物の名前さえ変えている。ナボコフが自分の作品をみずから英訳していたことは有名だが、内容に手を加えることはあまりなかった。だから本作はかなり珍しいケースだと言える。ロシア文学研究者の貝澤哉によると、「研究者によっては、これを作品の抜本的な改稿、新たな作品への作りかえととらえる向きもある」そうだ(光文社古典新訳文庫『カメラ・オブスクーラ』p341)。
宇多田ヒカルは、前述した中盤のショートフィルム内にて、今回のツアータイトルは小説の内容とは無関係であると言明している。しかし、楽曲同士をシームレスに繋いでみたり、『Kiss & Cry』に『Can You Keep A Secret?』のフレーズを入れてモッシュアップさせてみたり、あるいは『Too Proud』でみずからラップしてみたりすることは、ナボコフが『カメラ・オブスクーラ』を『暗闇のなかの笑い』へ書き換えた作業と似ている。どちらもオリジナルをブラッシュアップさせ、その一部を変更し、見方によっては新たな作品へと昇華させたわけだ(事実、『Too Proud』はリミックスver.も製作して告知もしている。しかも固定ツイートで)。
やり直し!かっこよく仕上がったから聴いてほしい!『Too Proud featuring XZT, Suboi, EK (L1 Remix)』Spotifyはこちら https://t.co/0bNCcY9P9z#宇多田ヒカル #TooProudL1
— 宇多田ヒカル (@utadahikaru) 2018年11月8日
たとえ宇多田ヒカル本人が意識していなかったとしても、1930年代のロシアの文豪と2010年代の日本のアーティストは、無意識レベルにおいて共鳴している。
ちなみに、原題の『カメラ・オブスクーラ』とは写真機の原型となった光学的な視覚装置のことで、ラテン語で「暗い部屋」を意味する。暗闇のなかで映える美しいライティングや、写真・動画の撮影が許可されていたことも、ナボコフの小説と無関係ではないかもしれない。
あるいはもっと深読みして、「暗い部屋で見る・見られる」こと、すなわち「オーディエンスがいるライブ」があることによって、宇多田ヒカルはアーティストとして真の意味でもう一度生まれ変わった、そう考えることもできるかもしれない。
「人間活動宣言」から8年。宇多田ヒカルはアーティストとして復活(Resurrection)した。
「悲しい話はもうたくさん。飯食って笑って寝よう。Can we play a love song?」
なお、ライブの模様は、BSスカパー!にて2019年1月27日(日)午後9時より放送が決定。3月にはMUSIC ON! TV(エムオン!)で完全版の放送も予定されている。
さらに2019年1月18日にはSkrillexとの共作楽曲『Face My Fears』がシングルとして発売決定。この曲は『KINGDOM HEARTS Ⅲ』のオープニングテーマとなっており、ジャケットは同シリーズのディレクター・野村哲也が描き下ろしている。同時収録の『誓い』『Don’t Think Twice』(『KINGDOM HEARTSⅢ』エンディングテーマ)は先行配信がスタートしているので、ぜひチェックしてほしい。
〈セットリスト〉
1.あなた
2.道
3.traveling
4.COLORS
5.Prisoner Of Love
6.Kiss & Cry
7.SAKURAドロップス
8.光
9.ともだち
10.Too Proud
11.誓い
12.真夏の通り雨
13.花束を君に
14.Forevermore
15.First Love
16.初恋
17.Play A Love Song
En1.俺の彼女
En2.Automatic
En3.Goodbye Happiness
〈放送〉
・BSスカパー!
番組名:宇多田ヒカル「Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018」
日時:2019年1月27日(日)午後9時~
チャンネル:BSスカパー!(BS241/プレミアムサービス579)
視聴方法:スカパー! のチャンネル、またはパック・セット等のご契約者は無料でご視聴いただけます。
特設サイト
・MUSIC ON! TV
エムオン!では、裏側のドキュメンタリーも含めた完全版を放送!!
番組名:M-ON! LIVE 宇多田ヒカル「Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018」
日時:2019年3月10日(日)午後8時~
チャンネル:MUSIC ON! TV(エムオン!)(CS325/プレミアムサービス641)
視聴方法:当チャンネル、または当チャンネルを含むパック・セットのご契約者はご視聴いただけます。
Webサイト
〈リリース情報〉
New Single『Face My Fears』
2019年1月18日(金)発売
ESCL-5150
1,400円(税込)
1.Face My Fears (Japanese Version) / 宇多田ヒカル & Skrillex (国内版ゲームソフト『KINGDOM HEARTSⅢ』オープニングテーマ)
2.誓い(国内版ゲームソフト『KINGDOM HEARTSⅢ』エンディングテーマ)
3.Face My Fears (English Version) / 宇多田ヒカル & Skrillex (海外版ゲームソフト『KINGDOM HEARTSⅢ』オープニングテーマ)
4.Don’t Think Twice(海外版ゲームソフト『KINGDOM HEARTSⅢ』エンディングテーマ)
初回仕様:「キングダム ハーツ」シリーズ ディレクター野村哲也氏描き下ろしピクチャーレーベル、PlayPASS対応
〈宇多田ヒカル〉
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