ちょうどいまごろだったか、1996年に〈DMCワールド・チャンピオンシップ〉の取材のためイタリアに渡った。コスリ(スクラッチ)系が好きなのはもちろん、いちばんこころがときめいたのが開催地。「カンツォーネの故郷でヒップホップだなんて、きっとサムシングがおこるはず!」。ブラジルは行ったが、ヨーロッパは未体験。かといってイギリス(DMC本拠地)ではなくイタリア、それもリミニという避暑地。
「リミニ? はて、どこなのか」。長靴の形をしたイタリア半島の地図を広げ、人さし指をあっちこっち移動しながらようやく見つける。アドリア海に面した観光都市。あと5年遅ければ、ファットボーイ・スリムが地元ブライトンのビーチでやった〈ビッグ・ビーチ・フェスティヴァル〉をイメージするところなのか。どのみち場所は薄暗いホールの中。マスコミ以外、通りすがりの観光客がほとんどだから、いまいち盛りあがらない。
そもそも男くさいDJバトルと、このシャレオツな街との接点はどこにあるのか。理由は本大会をもって10周年となるDMCの歴史にあった。また、これにあわせて公式のDJミキサーにテクニクス社製を採用することが決定している。同社はすでにターンテーブルも押さえているから、これにより他社の参入を完全にブロックしたことになる。ほかにもオトナの事情がいろいろと絡んでの特別開催地となったのだろう。日本からはわたしのような記者以外にもメーカーの営業、代理店の人間も複数来ていた。
そして、これについてはこうも説ける。海外取材において、あらゆる面での待遇が担保されているということ。現地に着きホテルの前でそれを実感させられる。鍵の壊れたトイレ、水の出がわるいシャワーなど、ブラジルでの経験(過去の回を参照)がなつかしくなるようなアメニティーの数々。扉を押し部屋のカーテンを開けると、窓からの陽がベットのシーツをやさしく包む。窓枠に切り取られるのは、これまで鈴木英人とかのイラストでしか見たことがないような絶景。コバルトブルーの海を眼下に、しばしぼんやりと眺めていたら、ブ~ンという音とともにランボルギーニ・カウンタックが海岸道路に赤い光芒を残し去っていった。スーパーカー・ブーム世代としておもわず童心に返る。おもえば公道を走るカウンタックなんてこれまで見たことなかったし。
レコードは探すな、レコード屋を探せ
夜の本戦までまだ時間がある。それまで観光がてら街中を徘徊することになるが、両目が落ちつきなく探すのはもっぱら黒い円盤の看板。「さすがにないだろう」ーー熱海や伊東にそういう店がないように期待薄で散策していると、意外やアパレルショップが並ぶ一画に発見。ショーウィンドウには国民的歌手エロス・ラマゾッティの新作が飾られているーー「ふるいのはないかなぁ……」。その横の敷居をいっしょになってまたいだのは、おなじく記者として同行していたDJ CELORY氏。十坪ほどの店内にCDが半分、残りのレコードも日本で見るようなものばかり。「やはり観光客向けか」ーーそうあきらめかけていたところに、長年鍛え上げられた嗅覚がビビッと反応、足裏に伝ってくる床下からの音を聞き逃さなかった。
レジスターの奥に地下へとつながる階段が見える。「もしや!?」。洞穴に吸い込まれるように階段をおりると、店の外観からは想像できない光景が目の前に現れた。まるで邸内。ふるめかしい内装はさしずめ図書館のよう。実際に古書もあったが、所狭しとレコードが所蔵されている。迷路のような間取り。部屋がいくつもあって、そこにもぎっしり。レコード好きならこういう絵が一度や二度、夢に出てくるはず。まさにそういうのが現実にあった。
「これじゃいくら時間があっても足りないぞ」ーーレコードをさわる指が猛スピードで動く。ただし、どのジャンルもアメリカものがほとんど。事前に聞いてはいたけど、これだけあってイタリアものが出てこないとは。あればあったで、ふんぞり返ってるような値がついているし。探していた60年代のイタリア人ジャズを数枚レジに差しだすも、めずらしいサントラ類は高すぎてパス。取材のことなど忘れるくらい時間ギリギリまで物色し、店をあとにした。
時代を変えた大会
「あんなサントラ、日本ならさらに倍はするんだろうなぁ」ーーレコードジャケットをあたまに念写しながら現場までもどる。こっちはこっちで熾烈な争いがおこなわれていた。覇者はデンマーク出身のDJノイズ。雌雄を決したのが、彼の代名詞である“ワードプレイ”というテクニック。レコードに刻まれたことばを抜き取り、二台のターンテーブルで交互につなぐなりしてオリジナルな言語を構築するという寸法だ。バトル形式なら相手の弱みをつくワードで一泡吹かせる。
ゲスト出演していたのが前年度の優勝者ロック・レイダー(2009年事故死)。彼の得意技ボディトリック(身体を使ったプレイ/動画2:08)をもってコスリ系の限界も一度は見えてきたわけだが、そこにノイズが台頭することで時代の変化を嗅ぎとったひとはすくなくなかったはず。アイデア勝負なだけに、その後は数ある技のひとつに吸収されていくが、MCバトル同様、ことばによる威嚇はわかりやすい。
当時の衝撃度を象徴するのが、1994年にニューヨークで開催された<ニュー・ミュージック・セミナー>に出演、優勝したときの模様。
伝説のバトルとされている理由は、ずばり世代交代。ビートジャグリング(ビートを軸としたプレイ)を中心とした旧態依然の対戦者(DJショートカット)との一騎討ちで、わかりやすい対戦構図が描かれている。DMCを制するのはこの2年後になるわけだが、ノイズはもとよりDMCにとってもターニングポイントとなったと言える。
イタリア放浪の入り口
「あの店にもういちど行けないかなぁ……」ーーこのときのわたしも岐路に立たされていた。翌朝にはチェックアウトし、そのまま成田行きの飛行機に乗らなければならない。はるばるやって来たのに、二泊したくらいで帰国してしまうなんて。想い出がDJノイズと真っ赤なカウンタックだけでは味気ないではないか。そう、こういうときこそフリーランスという立場を生かさねば。レポートはファクスで送ることにして、10日間ほどイタリア国内を放浪することにした。
じつをいうと、これには具体的な目的があった。数ヶ月前、国際電話で取材したジャズピアニストがイタリア人だったため、直接会ってお礼をしようとおもったのである。彼はボローニャで暮らしている。ぐうぜんにもリミニとおなじエミリア=ロマーニャ州。およそ100キロを電車で移動、乗り継ぎなく一本で行くことに。ただし、会社や学校の帰宅時間帯と重なったため、終始、立ちっぱなし。ヘトヘトになりながらも〈世界の車窓から〉で目にする、おおきなアーケードに覆われたプラットホームが見えてくるなり、どこかに温存されていたチカラがその日最後の元気を身体に取りもどす。
リミニとはちがう、歴史ある中世都市。駅舎に染みつく香気を肌で感じながら、この日の宿を探すため案内所まで歩いていった(つづく)。
SHARE
Written by