文学の天下一武道会「ブンゲイファイトクラブ」開催中!
電子書籍の出版レーベル「惑星と口笛ブックス」が3人の匿名編集者と共催する文芸バトル、「ブンゲイファイトクラブ」が開催中だ。応募総数293人の中から予選を勝ち抜いたアマチュア26人と、招待作家であるプロ6人、計32人の書き手(ファイター)たちが、AからHまでの8ブロックに分かれ、トーナメント方式で戦う。
勝敗を決めるのは8人の評者(ジャッジ)だ。このジャッジも、自分の判定が妥当かどうかをファイターから逆判定される。最終的に、1人のジャッジと1人のファイターが勝ち残ることになる。
1回戦が始まったのは10月1日。32の作品が公開された。そして13日、ジャッジによる作品評が公開され、2回戦進出者が決定。20日からは2回戦の作品も読めるようになった。つまり、今がまさに佳境である。
本記事では、今大会の公開作品で大多数を占めるショートショートや超短篇といった短い小説のジャンルについて解説した上で、作品全体の傾向を概括してみたい。
短篇よりも短い小説
「ブンゲイファイトクラブ」は、400字詰め原稿用紙6枚以内の作品で争われる。詩、小説、俳句、短歌、川柳、エッセイ等、ジャンルは問わない。要件は日本語であること、短いこと。だが、1回戦に残った32の作品の内、小説(と呼べそうなもの)が30にのぼった。本記事でも、この短い小説に注目したい。本当は俳句や川柳についても書くべきなのだが、残念なことに筆者に十分な知識がなく、断念せざるをえない。申し訳ない。
2000字程度の短い小説は、一般に「ショートショート」や「掌篇」と称される。最近では、「超短篇」という呼称も聞かれる。いずれにしろ、「短篇」より随分短いという認識は共有されているものの、明確な定義はない。
しかし、このように短い小説は昔から存在し、言及する人の数もそれなりに多い。また、20世紀後半以降、慌ただしい現代にはもってこいという理由から、短い小説が世界的に注目されている。さらに、その短さゆえに、アマチュアにとって敷居が低く、一般公募の掌編小説コンクールが催されることもある。ちょうど「ブンゲイファイトクラブ」みたいに。
本記事では、このジャンルの名称について、特徴について、利点について、順を追って説明してゆこう。
名称について
「ショートショート」という名称は、アメリカで誕生した。このジャンルの小説は1925年から1945年まで隆盛し、いったん廃れかけたものの、1960年代になって盛り返した。当時のアメリカのショートショートは、短篇作家オー・ヘンリーの影響を強く受けていると評される通り、彼の小説同様、鮮やかなオチで締めくくられることが多い。
「ショートショート」という名称が日本に定着したのは、1950年代と言われている。特に、星新一と都築道夫が名手として有名だ。ただし、それ以前にも、ごく短い小説は存在していた。そればかりか、違う名称を冠せられていた。その一つが「コント」である。「コントconte」とは、「短いお話」を意味するフランス語で、日本のお笑いのジャンルとしてのコントのことではないので、要注意。
1970年代以降は、「掌篇」という名称も使われるようになった。恐らくこれは、川端康成のごく短い小説を集成した『掌の小説』に由来すると思われる。近年では、「ショートショート」や「掌篇」よりさらに短い短篇に対し、「超短篇」という名称を授けようとする動きも見られる。
他にも、「サドン・フィクションSudden Fiction」や「極短小説」など、新しい呼び名が続々と現れており、ショートショート界隈ないし超短篇界隈は、活況を呈している。本記事ではとりあえず、短篇より短い小説を「ショートショート」、それよりもっと短い小説を「超短篇」と呼ぶことにするが、両者を厳密には区別しない。
ショートショートや超短篇は、アメリカと日本以外の国や地域でも書かれてきた。モーパッサンのフランス、チェーホフのロシア、ボルヘスのラテンアメリカ…。世界各国のショートショートや超短篇を集めたアンソロジーもたくさん刊行されている。その中から、20世紀に刊行された代表的なものをいくつか俎上にのせ、このジャンルの特性について考えてみよう。
ジャンルの特性
『世界ショートショート傑作選』(講談社文庫)は1977年から1980年にかけて刊行された。興味深いのは、1巻と2巻では、収録作品を「クライム&ミステリー」「怪奇&幻想」「コント」の3つのテーマに分類していることだ。「コント」というのは、先述したように「短いお話」を指し、「ショートショート」の別名とも言えるのだが、ここでは前の2つのテーマに当てはまらない「その他」のことだと考えていい。
ショートショートというジャンルは短さのみによって規定され、内容に制限はない。しかし、『世界ショートショート傑作選』では、世界各国の小説からミステリー色が濃く幻想味の強いものが多く採られている。これは編者の各務三郎の好みを反映しているだけだろうか? それとも、ひょっとして、このジャンルに固有の傾向を反映しているのではないか? そういう疑問を胸に、別のアンソロジーもチェックしてみよう。
『Sudden Fiction 超短編小説70』(文春文庫)は1986年にアメリカで出版され、1994年に日本で邦訳が刊行された。この本に収録された作品は、テーマ毎に分類されているわけではないが、訳者の1人である村上春樹は、収録作品の中に「二つの流れ」を認めている。
本書に収められたサドン・フィクションズにはいわゆる、A「うまい短編的なリアリスティックなもの」とB「破裂的でシュール・リアリスティックなもの」の二つの流れがあって、作品作品によって「A80・B20」とか、「A30・B70」とかいった具合にブレンドされているように思える。
「破裂的」とは、「ぱっと見事に勢いよくはじける」という意味だが、本記事では読み飛ばしてもらって構わない。大事なのは、「リアリスティックなもの」と「シュール・リアリスティックなもの」という対比のほうだ。後者は「幻想的」と言い換えることも可能だろう。つまり、『世界ショートショート傑作選』と同様、『Sudden Fiction 超短編小説70』でも幻想味が主要な要素になっているわけだ。
アンソロジーのタイトルから、収録作品の傾向を把握できてしまう場合もある。『ミニ・ミステリ傑作選』がそうだ。エラリー・クイーンが編者を務めたこの本には、犯罪小説(クライム)やミステリー小説が70編収録されている。クイーンのウィットに富んだ言い回しを借りれば、「殺してもよい数分の暇があるときに」つまめる短い作品ばかりだ。当然、これらは「クライム&ミステリー」というテーマで括ることができる。
日本に目を移してみると、川端康成『掌の小説』には幻想味の強い作品が比較的多い。また、先述した都築道夫はミステリーの分野で小説を量産している。このように概観すると、ショートショートというジャンルにおいて、ミステリーと幻想という2つの大きな潮流が浮かびあがってくる。もちろん、それがすべてではない。村上春樹に倣えば、小説とは複数の流れが「ブレンド」されたものだからだ。
1つ付け加えておきたい。日本では特に、SFもショートショートの重要なテーマである。これは何よりもまず、星新一の仕事によるところが大きいと言えるだろう。
こうしたテーマにおける特性とは別に、構成や技法の面でもいくつか際立った特徴が見受けられる。たとえば、まさかの結末を迎える話が多い、笑劇が多い、一つの突飛なアイデアや設定で勝負する話が多い、等々。ただし、これもあくまで傾向であり、実際の作品は複数の特徴がやはり「ブレンド」されている。
3つの利点
ショートショートや超短篇は、速く読める。これが第1の利点である。
現代人は忙しいと、しばしば言われる。それが本当かどうかはともかくとして、長い時間を読書に割けないときは、たしかに小説が短いとありがたい。また、『超短編アンソロジー』の編者である本間祐が指摘するように、超短篇は「ネット上で読む長さにぴったり」だ。逆にいえば、それはネット上に書く長さにぴったりということでもある。
つまり、ネットに発表しやすい。これが第2の利点である。
第3の利点は、アマチュアが参入しやすい点である。
たとえば、昭和50年代にアマチュアを対象に月刊カドカワが開催した「掌篇小説大賞」は、400字詰め原稿用紙10枚以内の作品を募集していた。現在、SNSの浸透で文章を書くことに抵抗のない人たちが増えたことも後押しして、ショートショートないし超短篇というジャンルは、アマチュアにとっていよいよ開墾しやすい土地となっている。
「ブンゲイファイトクラブ」作品の傾向について
上述した内容を踏まえ、「ブンゲイファイトクラブ」に集まった小説全体の傾向(あくまで傾向にすぎない)をざっと見渡すことにする。大会趣旨にはそぐわないが、個々の作品の優劣については基本的に言及しない(ジャッジしない)。グループの区分にもこだわらない。
興味深かったのは、「クライム&ミステリー」のテーマで書かれた作品がほとんどなかった点である。小野不由美のミステリー小説『残穢』を下敷きにした異色作『読書感想文「残穢」』と『手袋』の2作には、ややミステリー風味があるものの、ほのかに香る程度だ。
一方、「怪奇&幻想」のテーマで書かれた作品は非常に多かった。ボルヘス的ないし衒学的な『読書と人生の微分法』『天空分離について』。
異形の生命体や物質、得体のしれない何かが出てくる『あの大会を目指して』『飼育』『天の骨、地の肉』『期待はやがて飲み込まれる草』『その愛の卵の』『逆さの女』『私の弟』『跳ぶ死』『パゴダの羽虫』『ハハコグサ』『森』『グリーン テキスト』『天狗の質的研究』。
超自然的な設定をもっているか、超自然的なことが起こる『愛あるかぎり』『インフラストレーション』『宇宙が終わっても待っている』『伝染るんです。』『殺人野球小説』『月と眼球』『遠吠え教室』『夏の目』『ハワイ』『砂のある風景』。
いま名前を挙げなかった諸作のうち、『愚図で無能な間抜け』『甲府日記 その一』『くされえにし』『抜ける日々からむいていく』の4作はリアリズム的要素が強い。また、『いっぷう変わったおとむらい』と『鳩の肉』は幻想とリアルの中間帯に位置づけられる。両作ともに、幻想的要素は表面化しないが、仄めかされ、小説を下支えしている。『ミドリノオバサンとヒト、およびウマ』もやはり幻想とリアルのあわいを揺蕩う。
『アボカド』『来たコダック!』『立ち止まってさよならを言う』『あなたと犬と』の4作に関しては、テーマで分類してもあまり意味がないだろう。『アボカド』は一文一文を積み重ねて笑いを醸成してゆく構成に最大の特徴がある。また、カギカッコの使い方には新奇性がある。概してショートショートや超短篇には笑い話が多く、一口話や艶笑譚だけを集めたアンソロジーも各種刊行されているが、『アボカド』のように笑いを漸増させてゆく作品は、比較的珍しいと思われる。
『来たコダック!』は規範的な文法を逸脱して書かれた言葉遣いに最大の特徴がある。こういう言葉遣いは、幼児(の頭脳をもった大人)や常軌を逸した人などの思考を外在化させる手法として、すでに市民権を得ていると言ってよい。『アルジャーノンに花束を』はその最も有名な例だろう。ただし、この手法がショートショートや超短篇の領域で全編にわたって使用されることは、滅多にない。
『立ち止まってさよならを言う』は、エッセイとして読むことも可能か。いずれにせよ、言葉への違和感を率直に表明し、多言語間における言葉の揺らぎを見つめた、非常に現代的な作品である。二人称で書かれている点も、小説やエッセイであたりまえに使用されている一人称への違和感が原因と考えれば、得心がゆく。
『あなたと犬と』は極めて演劇的な小説である。チェーホフは舞台において二つ以上の会話を同時に進行させたが、金子玲介は小説において会話とト書き(地の文)を同時に展開してみせた。チェーホフの場合、戯曲として読むとその革新性が見えにくくなってしまうのに対し、金子玲介の場合、舞台にかけると革新性が消えてしまう。そもそも『あなたと犬と』は、内容と筋において、舞台化が非常に困難でもある。たしかに演劇的ではあるが、上演することを企図した台本ではありえない。まさに小説としか呼びようのないテクストと言える。1回戦と2回戦を合わせた38作品の中で、傑出している、と私には思われた。
以上、ショートショートや超短篇というジャンルの特性に鑑み、「ブンゲイファイトクラブ」作品の傾向を概括した。最後に、1回戦落選作の中から筆者の好みの作品を2つ挙げて、終わりにしたい。
1つ目は、『愛あるかぎり』。日常生活に一つだけ奇抜な設定を持ちこんで話を展開している点が、マルセル・エイメの短篇を彷彿させ、個人的に好感が持てた。また、結局は男女のロマンスに結実する筋運びには、普遍性と安心感がある。村上春樹の短篇『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』のような、出会いをめぐる壮大なお伽噺として読むことも可能で、日常系恋愛ファンタジー小説とでも呼んでみたい(そのままだが)。こういうタイプの小説は、潜在的な需要がかなり高いと思う。
2つ目は、『期待はやがて飲み込まれる草』。空中に突如出現した穴が、マスコミやネットのネタとして消費されてゆく様子が淡々と描かれており、おもしろい。驚異的な現象を世俗的なレベルに引き降ろすこのような手法は、19世紀前半のロシアの作家ゴーゴリの得意技だったが、昨今の日本の小説でも散見する(「ブンゲイファイトクラブ」作品の中では、『私の弟』がこのタイプに該当するか)。タイトルの「草」は「w」(笑)の意だと思うが、小説の内容とも相まって、半分悪ふざけのようで肩の力のぬけた感じが小気味いい。
「ブンゲイファイトクラブ」では、誰でも、無料で、手軽に、素早く、作品を読むことができる。トーナメント戦で勝者を決めるやり方も分かりやすい。そのため、TV番組やYouTubeの人気チャンネルのように、一種のコミュニケーションツールとしても魅力的だ。こう書くのはまだ早いかもしれないが、第2回大会の開催にも期待。
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