「特別な場所=スタジオ」で行われた最高のライブセッション
「親はいつも私をスタジオに連れて行った[原文ママ]。小学一年生の頃からスタジオで宿題をして、スタジオでご飯を食べて、スタジオのソファーで寝た。今でもスタジオはどこよりも落ち着く場所。いつ、どこの国でも同じような内装と照明と乾いた空気。静かな湖みたい。」
宇多田ヒカル『点』
2022年1月19日、待望のニューアルバム『BADモード』のリリースに合わせて、ロンドンの名門レコーディングスタジオ・Air Studiosにて事前収録したライブ・パフォーマンスが配信された。<Hikaru Utada Live Sessions from Air Studios>と冠されたこの配信は、全世界で約5万人がチケットを購入し、Twitterでも「#LSAS2022」がトレンド入りしたことで大きな話題を呼んだ。
多くのリスナーが熱狂した最高のパフォーマンスは、宇多田ヒカルにとっても初の試みである「スタジオでの有料ライブセッション」という形式に最大の特徴があっただろう。Floating Points、A.G.Cookなどのエレクトロニック・アーティストらによる共同プロデュース曲を含む、緻密なビートとシンセワークにより構成されていたアルバム『BADモード』収録曲を、生演奏を基本に再現したという驚きは大きい。大小10台以上のキーボードにスイッチャー、アコギにエレキ、生ドラムにパッドドラム、無数のパーカッション、DAWと接続されたサンプラー……大量の楽器を使い分けた現代的なフュージョンとしての側面もあった。
一方で、これまでライブといえばアリーナを行脚してきたキャリアを考えると、今回のライブセッションは異例だといえる。もちろん世界的なパンデミックという状況も大いに絡んでいるとはいえ、この2年間で様々な配信ライブの形が模索されてきたことは周知のとおりだ。
冒頭に引用したのは、2009年に刊行されたオフィシャルブック『点』より、スタジオについて言及している一節だ。「静かな湖みたい」なスタジオは、常に不安定な環境にあった幼少期のエスケープゾーンとして機能していたという。そんなパーソナルな意味を持った特別な場所を、約3年8ヶ月の時を経たカムバックの大舞台に選んだこと自体が、何かシンボリックな出来事のように思えてならない。
セットリストを終えた後に語られた「普段は共有できない奥の方の特別な空間を、初めて共有できた気がしている」という言葉からも、スタジオに漂う”親密さ”を届けることが大きな目的になっていたのではないかと伺える。
はたして宇多田ヒカルにとっての「特別な場所=スタジオ」ではどのようなパフォーマンスがされたのか。今回のライブを取り巻く環境について取り上げていきたい。
信頼のおけるクリエイティブチームとバンドメンバー
(宇多田ヒカル『Find Love』Live ver.)
スタジオのミニマルな環境をアトラクティブな作品に仕立て上げているのが、映像、音響ともに卓越した技術を誇るクリエイティブチームの存在だ。映像を監督したDavid BarnardはRadioheadやEric Claptonなどのビッグアーティストのフィルムも制作したエキスパート。彼が率いるチームが語るに、「カラフルさを盛ったりグレーディングに手間をかけたりせず、素直な映像を見せようと」し、シンプルに撮る方針を採ったという。音響の面では、U2やAlicia Keys、Sam Smithなどを手掛けてきた名匠エンジニアSteve Fitzmauriceが録音とミックスを手掛けており、臨場感に富むサウンドがパッケージされている。こうしたクリエイティブチームの尽力により、スマートフォンやタブレット越しの私たちがスタジオに足を踏み入れたかのような没入感が演出された。
その舞台に立つバンドメンバーたちも精鋭が揃っている。ベースのJodi Millinerは、2016年の復帰作『Fantôme』からレコーディングに参加しており、2018年の『初恋』のツアーでもバンドマスターを務めていた。ドラムのEarl Harvinやキーボード、ギターのHenry Bowers-Broadbent、パーカッションのWill Fryなども宇多田ヒカルのキャリアに継続的に関わっており、演奏の前後に彼らと目配せをする宇多田ヒカルに信頼の色が見てとれるのも、今回の映像の魅力の一つだった。キーボーディストとして参加したRuth O’sMahony Brady、Reuben JamesもそれぞれSam Smithをはじめとしたアーティストとのコラボレーターとしても活躍する腕利きのミュージシャン(なんと今回のライブでは兼任も含めてキーボーディストが3名もいる)。さらにサックスのSoweto Kinchはラッパーとしてイギリス最大のラップバトル大会「Don’t Flop」にも出場経験があるという。
そんな総勢7名のバンドメンバーが非常にユニークで、そのアレンジに注目するのもライブの見どころの一つといってもいい。たとえば、「君に夢中」の美しいピアノのイントロから一気に目が覚めるようなドライな打楽器――黄土色の流木のような木片をスティックで叩く楽器――には、「これは一体何だ?」と目を丸くした人も少なくないだろう。『BADモード』収録の「-Somewhere Near Marseilles-マルセイユ辺り―」(ライブでは演奏していない)で鳴っているシェイカーは宇多田ヒカルがWillからプレゼントされたものだというエピソードも、Spotify限定配信の「宇多田ヒカル Liner Voice+」で語られている。
取り上げればきりがないのだが、もう一つ。今回のライブで最もアレンジがどうなるのか気になったのは、Skrillexとの共作「Face My Fears (English Version)」だった。2010年代のEDMシーンの象徴的存在でもあるSkrillexが手掛けるエレクトロニックなこの曲をどう生演奏で処理するのか……という心配を的確なビートで吹き飛ばしてくれたのはドラムのEarl Harvinだった。彼も『Fantôme』からレコーディングに参加している宇多田ヒカルのキャリアを支える一人。Richard ThompsonやJeff Beck、Joe Henryなどのレジェンドとも共演経験があるというのだから驚きだ。
(宇多田ヒカル『 Face My Fears (English Version)』Live ver.)
なぜ宇多田ヒカルはスタジオから音楽を届けたのか?
クリエイティブチームやバンドメンバーのプロフェッショナルなサポートがあって実現した<Hikaru Utada Live Sessions from Air Studios>。素晴らしいセッションは最高の夜を演出し、宇多田ヒカルのボーカリストとしての魅力を存分にみせつけた。
主役のパフォーマンスについては他稿に譲るとして、ここでは、宇多田ヒカルが「特別な場所=スタジオ」から音楽を届けた意味について考えてみる。
ここで思い出したいのは、2010年の「人間活動宣言」以前、宇多田ヒカルは他のミュージシャンとのコラボレーションが極端に少ない作家だったことだ。レコーディングの際も、たった一人でボーカルからビート、オーケストレーションにいたるまで徹底的にコントロールしていたという事実はこれまでに何度も語られている。だからこそ、2016年の復帰作『Fantôme』で椎名林檎、小袋成彬、KOHHらが参加していたことは、世に衝撃を持って受け入れられた。そして重要なのが、この時からアルバム制作に参加していたのが、スタジオライブでベースを務めるJodi Millinerをはじめとした、世界トップレベルのミュージシャンたちだった。
これまで徹底的にプライベートなものだった音楽制作が徐々に外に開かれていったということは、『初恋』の特設サイトに掲載される小袋成彬と酒井一途との鼎談でも語られている。
「ミュージシャンに対する信頼もあって、前よりもうまくミュージシャンを使えたし。デモでは、ベースもドラムも一切入れてなくても、その場でJodi MillinerとChris Daveに『こんなイメージなんだけど、やってみて。何かできる?』って、丸投げしてもオッケーだった。彼らと対話すれば通じるし、彼らも私の音楽を面白いと思ってくれていることを感じながらやれたから」
この言葉を鑑みると、アルバム『BADモード』から大幅にアレンジされた今回のライブが、ミュージシャンたちへの信頼によって支えられていることが分かるだろう。とあるインタビューでは「音楽を共通言語」とすることで、音楽的にも社会的にも助けられたということが語られている。事実、本ライブでミュージシャン同士が言葉を交わすことはほとんどなく、音楽と表情だけでコミュニケーションがなされている。
ここで改めて冒頭の引用を振り返ると、「静かな湖」のような、どこまでもプライベートな「特別な場所=スタジオ」の像はキャリアの中で、意味合いを変調しているようにみえる。すなわち、エスケープゾーンとして特権的に孤立していたスタジオは開かれた空間になり、宇多田ヒカルが他者と共存できるハビタブルゾーンに変わったのではないだろうか。
このような心境の変化が、「スリッパを履いてスタジオにお邪魔する」ような”親密さ”を演出していたのではないかと、<Hikaru Utada Live Sessions from Air Studios>の素晴らしいセッションを聴いて思う。
(宇多田ヒカル『BADモード』MV)
【Hikaru Utada Live Sessions from Air Studios】セットリスト
M1. BADモード
M2. One Last Kiss
M3. 君に夢中
M4. 誰にも言わない
M5. Find Love
M6. Time
M7. PINK BLOOD
M8. Face My Fears (English Version)
M9. Hotel Lobby
M10. Beautiful World (Da Capo Version)
M11. About Me
〈宇多田ヒカル〉
オフィシャルサイト
http://www.utadahikaru.jp/
Twitter
https://twitter.com/utadahikaru
Instagram
https://www.instagram.com/kuma_power/
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